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中大事件を起こした山本竜太の人となり [*事件や事故]

【2009年09月05日】-1月に起きた中央大学の事件では、教え子の山本竜太が捕まった。教授を殺した理由は、大学に残してくれなかったし、就職がうまく行かなかったからのようだが、山本君がどんな人物なのかあまり伝わっていない。

  6月4日号の『週刊新潮』と『週刊文春』が山本君の人となりを取り上げ、最近ようやく読んだので、要点を書くことにする。両誌とも取材が足りないようで、どんな人物かよく分からない。話してくれる人があまりいないのだろう。私の要約も正確ではないので、そのつもりでお読み頂きたい。

 一人っ子のようだ。性格はおとなしくて内向的。両親の仲は悪く、度々別居した。父親は酒癖が悪かった。両親の実家はどちらも裕福で、母は外車を運転していた。

 母親は教育熱心で、息子を溺愛した。母親の言うなりだった。絵や工作が得意だったが、母は小学校の頃からピアノとバイオリンを習わせた。テレビ・ゲームは捨てたが、百万円のバイオリンを買ってやった。

 高校までは府中市の学校に通い、成績はよかった。(高校時代と思われる作文が載っていたが、文章はうまいと思う。)

 大学には現役で入ったが、1年時は単位が足りなくて留年した。サークルに入らなかった。卒業後勤めた食品会社では人付き合いがうまく行かず、退社した。母は「竜ちゃんが悪いんじゃない。会社が悪い。」と言った。その後の2社もすぐ辞めた。それからはアルバイト。

 1年くらい前からか、平塚市の父の実家で叔父さんと暮らしていた。ノートには「前向きに生きていかないといけない」「マイナス思考じゃ駄目だ。プラス思考でないと。」などと書いてあった。(自分を言い聞かせようとしていたが、うまく行かなかったと見える。)

 母親が教育熱心で息子がおとなしい場合、子供は抵抗できず不満や怒りをため込みやすい。父の影が薄く、母が溺愛すると子供が問題を起こしやすい。以上が両誌の要約だ。括弧内は私の感想。

・産経から
 産経新聞にも、人となりが分かる箇所があったので、抜き書きする。

 「小中学校の同級生によると、山本容疑者は中学生のころ、嫌なことがあると家の壁に穴を開けたり、花瓶を割ったりすることがあった。『学校ではおとなしかったので意外だった』(同級生)」

 「図書館をよく訪れたが、立ったり座ったりと落ち着きがなかった。ぶつぶつ独り言をつぶやき、人の読んでいる本を断りなくのぞき込むこともあった」「(実験の時)自分のやりたいように勝手にやり、周りを困らせていた」「(研究室では)周囲の声に耳を傾けず、一方的に持論をまくし立てた。」

 元々独り善がりなところがあったようだ。

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コメント 3

mudai

>学校ではおとなしかったので意外だった

こういうフレーズはよく出ますね。履歴書も含め、容疑者の人格攻撃に持っていきたいようです。その方が、雇用問題・教育問題・家庭問題などの掘り下げが無くて済みますので。グロスマンという戦争の殺戮について本を書いた軍人がいるのですが、なかなか人は人を殺せない仕組みに出来ています。ライフリンクの活動ともつながるのですが、怨念や自責がダイレクトに殺人や自殺(こちらの方が問題がはるかにでかいが)つながり、その間のバッファ層を持たない社会をネオリベは造ってしまう様です。
暴発予備軍は、山本だけではないはずで、しかし殺人なんて大層な事には至らないのはもちろんです。その代りに、おそらくひどい差別意識や言葉の鋭い暴力の形で発散されているのが実情だと思われます。
社会になんだか蔓延している敵意めいたものを見ると、だれもが持つ心理的に危ないものをバッファ・緩和する社会的仕組みの破綻を思わせられます。
by mudai (2013-05-12 21:14) 

アトミ

mudaiさん、コメントありがとうございます。返事が遅れて済みません。

重要で深いことを書いてくださいました。考えさせる内容です。また何かご意見があったら、よろしくお願いします。
by アトミ (2013-05-23 18:56) 

通りすがり

初めまして。

このコメントは2013年5月19日の記事『「憲法は権力者を縛るもの」は新たな屁理屈』向けのものです。その記事内にもしかしたら少しだけ誤解されているかもしれないと思われる部分がありましたが、そちらではコメントできなかったので、こちらの記事をお借りして投稿させて頂きます。
何らかの意図があってコメント欄を閉鎖されているのにも関わらず、このような手段でコメントすることが非常識なであることも自覚しております。また、おそらく既知のことをくどくどと説明していると思います。さらに、書き出したら止まらず、非常に長文になってしまいました。申し訳ありません。

さて、その箇所は
>「憲法は権力者を縛るもの」という学説は聞いたことがない。
という部分です。

近代憲法について語られる時、少し言葉が違うものの、大体そのような趣旨のことは語られているように思います。

法律が、国家が国民に義務を課し、権利を制限するものであるのに対し、
法律の上位に当たる憲法は、国家権力が暴走することを防ぐために、国民が国家に対して課した鎖である…という風にです。

なお、ミヤネ屋の「普通の法律は国民を守る」といったことは、憲法学上普通は語られることのないものですね。私はこの放送を見ていませんが、本当にこのようなことを言っていたとしたら、的外れといってもいいです。

何故、憲法が法律の上位にあたるのかというと、形式的な根拠としては96条で法律よりも改正が困難であること、98条で憲法が国の最高法規であることを規定しているからだとされます。
しかし、その実質的な根拠は97条で基本的人権が永久不可侵のものであると宣言しているように、憲法の内容が人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障している点に求められます。

過去の経験上、権力者や為政者の作った法律は恣意的に運用されることが多く、国民の権利などを侵害しやすいものでした。そのような過去に対する反省から、権利・自由が不当に侵害されることを防ぐために作られた安全装置が憲法というわけです。国家権力を制限することが、国民の権利守ることにつながると考えられたわけです。

そのような国民の自由・権利を擁護する内容をもった憲法だからこそ、国会議員だけでは改正できないようにし、法律より改正を難しくすることで憲法の守っている価値が容易に失われないようにする必要もありました。

以下、芦部信喜『憲法』(第四版)から引用になります。(なお、最新の版は第五版なので注意してください)
文章の都合上、少し省略・改変した部分もありますが、大意は変わってないはずです。しかし、より詳しくお知りになりたいならば原文に目を通すようにしてください。

「近代憲法は、何よりもまず、自由の基礎法である。・・・もちろん、憲法は国家の機関を定め、それぞれの機関に国家作用を授権する。すなわち、通常は立法権、司法権、行政権、および憲法改正手続等についての規定が設けられる。・・・これらの規範が憲法に不可欠なものであることは言うまでもない。しかし、これらの規範は憲法の中核をなすものではない。それは、より基本的な規範、すなわち自由の規範である人権規範に奉仕するものとして存在する。
 ・・・人権規定は、憲法の中核を構成する「根本規範」であり、この根本規範を支える核心的価値が個人の尊厳の原理である。
 憲法が自由の基礎法であるということは、同時に憲法が国家権力を制限する基礎法であることを意味する。このことは近代憲法の二つの構成要素である権利章典(10条~40条にあたる部分)と統治機構(それ以外の大部分)の関係を考えるうえで、とくに重要である。」(p.10,p.11)
「近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするが、この立憲主義思想は法の支配の原理と密接に関連する」(p.13)


・・・なお、個人的な意見としては、憲法は改正しても良いと思いますね。
もっともその内容にもよりますが。
現在の憲法は70年近くも前に制定された古いものです。
当時の感覚では権利や自由にあたると想定されていなかったものでも、現代の感覚に照らせば権利にあたる考えられているものがあります。

今の憲法上規定されていない情報プライバシー権や自己決定権などは、その一部ですが最高裁判所の判例により認められました。
法律の世界では、明文化されている法律だけでなく、裁判所による判断の蓄積も先例として尊重されます。中でも、最高裁場所の下した判断は類似の案件において事実上の拘束力を持ちます。
上記の権利は幸福追求権を定めた13条を根拠に導かれました。現状、これらの権利は最高裁の判例という事実上の強い味方はありますが、明文の根拠は無い少し弱い状態です。これらの権利を補強するため明文の根拠を新憲法に盛り込むことは必要だと思います。

また、最近では刑事裁判の「被害者側の救済」ということが言われるようになっています。今の憲法は加害者側の権利は31条~40条で厚く保障しているのにもかかわらず、被害者側の権利については一切規定されていないおかしな状態です。このようなことが生じているのも「被害者側の権利・救済」という概念が70年前の時点では想定されていなかったからです。

これらの新しく出てきた権利のうち、特に最高裁判所により認められたものや保護する価値の高いと考えられるものを明文化していくことは必要だと思います。
また、平和憲法ともいわれる9条についても見直す必要があると思います。少なくとも自国を防衛する国防軍の保持にについては認めるべきです。こういうことを言うと、よく「軍国主義への逆戻りだ」などという極端なことを引き合いに出して批判をされることもありますが、それは全く的外れなことだと思います。もし、軍隊を持つことや、自国の防衛のみを目的とした国防軍を持つことが軍国主義になるのだとしたら、現在の世界の国々は軍国主義の国ばかりになってしまいますよね(笑)

自分の家に暴漢が入ってきたときのために、家に護身用スプレーを用意することや、武術を習ったり、自分を鍛えたりすることはとても自然なことですよ。武器や武力を持つことが危険だという意見には一理ありますが、それらが防衛手段として使われる限りは違法なものではないはずです。

まあ、いずれにせよ改正は慎重になされるべきではあります。一度改正したら、おそらく以後何十年間は改正されることなく通用し続けるものだからです。というよりも、現実問題としてあまり性急に事を運ぶことはできないでしょう。憲法の改正要件である国会議員の3分の2以上、国民投票の過半数の賛成というのはとてもとても高い壁ですから。
by 通りすがり (2013-06-07 13:26) 

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