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カイロの邑本先生は数年前から治療法も変わった [医療]

【2010年07月02日に掲載、04日に訂正】-5年くらい前から治療法も少し変わった。以前より先生の力が弱くなった。治療する時、背骨や他の骨を押したり叩いたりするのだが、5年くらい前からその力が弱くなった。

 私の場合は症状が改善したから弱くしたのかと思っていたが、他の患者さんも「力が弱くなった」と言っていた。

 また首や腰の骨の矯正をしなくなった。以前は首をグイッと回して付け根の骨をゴキッと鳴らしていたが、それをやらなくなった。脇腹を下にした状態で腰の骨を矯正するのもやめた。

 私は2年くらい前から首と右腰が痛むが、疲れが原因で骨格の不調とは思っていなかった。ところが先週から他のカイロ治療院を3ヶ所回ったら、首と腰の痛みが殆ど取れた。

 邑本先生の治療が足りなかったのだろう。先生は5年くらい前から体力が落ちていたのに、無理してやっていたのかも知れない。

・患者のために働きすぎた
 ご家族も体力の低下は感じていたのか、奥さんは喪主挨拶で「周囲の者が診療時間を短くするよう提案したが、『大勢の患者さんがいらっしゃる。自分にしか治せない病気がある。』と言って、拒んだ。」とおっしゃっていた。患者のことを考えて働き過ぎたのだ。まさか急逝するとは思っていなかったろうから、自分の体力も過信していたのだろう。

 若い頃からがむしゃらに頑張る性格だったようで、解剖医は弔辞で「睡眠時間を3時間にして勉強していた頃もある」と話した。

 またその教授によると、亡くなる数日前にも日大の解剖学教室を訪れて調べ物をしていた。治療法を研究するためだ。「体の中の仕組みが分からないと、治せないよ」とおっしゃっていたそうだ。疲れている時まで勉強して責任感が強い。先生はカイロの技術に熟達しているから、もう勉強しなくても大抵の病気は治せると思っていた。

・一人で抱え込む
 治療院を続けられなくなった時には、信頼できるカイロ治療院を教えてくれるだろうと期待していた。まさか急逝するとは夢にも思わなかった。

 お子供さんは3人いたから、誰かに治療院を継がせることもできたはずだ。第1子は看護婦になった。子供に継がせなかったのは完全主義者で、自分ほどにはできないと思ったからか。弟子も取らなかったようだ。

 一人ですべてやらずに、カイロプラクターを雇う手もあった。簡単な治療は助手にさせて、自分は難しい患者だけ診ればずっと楽になった。誰かと働きたくないのか、受付も置かなかった。

 また患者に他の治療院を紹介することもなかった。「自分の所で治せない場合は他の治療院に行って欲しい」とウェブ・サイトに書いているカイロ治療院もある。邑本先生は「そういう症状があるのなら一般の病院にも行きなさい」と言うことはあったが、患者の自宅に近い治療院を教えることはなかった。

 新幹線で来る人もいたから、そういう人には近所の治療院を紹介した方がよかった。近所だと治療費が高としても、交通費まで考え合わせると安く済むはずだ。

 遠方の患者に近所の信頼できる治療院を紹介しなかった理由は、売り上げが落ちることではないだろう。千円なのだから、元々金には執着していないはずだ。患者が減るのを嫌ったのだと思う。遠方からも患者が来るのが誇りだったのだろう。片道2時間の人はざらで、飛行機で来る人もいたそうだ。

・急死
 突然他界したので、患者は放り出された。週に2回通っていた人などは他の治療院を探す余力もなく、寝込んでいるかも知れない。一人で頑張りすぎないで、誰かに協力を求めるべきだった。

 先生は今それを悔いていると思う。来世では一人で何でもやろうとしないで、助手を置くだろう。

 他の治療院を回って感じたことは、他は姿勢を指導することだ。姿勢が悪いと、骨格を治してもまた歪んでしまう。邑本先生に「姿勢が悪い人がいる」と訴えたことがあるが、「こうやって骨格を治せばいい」と言われてしまった。

 食べ物についても指導しなかった。カイロの技術に傾きすぎていた訳だ。


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