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朝日新聞に出した手紙(4) [朝日新聞に出した手紙]

【1993年10月14日】-日本のマスコミは、一ヶ月くらい一つのテーマで盛り上がることがある。今年の5月はカンボジアのことで盛り上がった。

 カンボジアに日本の自衛隊や文民警察官が派遣され、文民警察官一人とボランティア一人が死亡した。この二人の死亡に関して、日本ではおかしな議論が巻き起こった。日本国憲法は、日本の交戦を禁止しているので、自衛隊員及び文民警察官は死んではならない、自衛隊は即刻引き揚げるべきだという議論である。

 自衛隊の扱いは、とても難しい。なにせ、存在自体が違憲なのだから。違憲の制度が何十年も続いている国は殆どないだろう。特に先進国では全くないと思う。独裁政権でも憲法を改正して、体裁を整えるだろう。だが、日本には憲法違反の自衛隊がある。

 朝日の社説は、はっきりとは撤収を訴えてはいないが、「要員の安全を極力図ることは政府の責任である。」「業務を中断し、たとえばプノンペンへの一時集結などを、臨機に進めるべきだ。」(5月5日社説)などと言って、暗に撤収を呼びかけている。

 だが、大事なことを忘れている。当のカンボジア人のことだ。大切なのは「派遣される人たちの立場にたって、柔軟に対処する姿勢である。」(同日)とあり、カンボジア人の安全は視野にない。「日本だけが安全なところを求めるというのではなく、各国の要員の身の安全を最大限守る」(5月7日社説)ともあり、やはりカンボジア人のことは忘れている。

 日本人や他の国のPKO要員が死ななければ、カンボジア人は死んでもいいと言っているようなものだ。PKOの基本的な考え方は、内戦が続いて何万人もの人が死ぬよりも、数十人のPKO要員が死ぬ方がましだということだろう。もしこの時点でUNTACがカンボジアから撤退したら、カンボジアはまた内戦に突入していたかも知れない。

 もっと言うと、朝日新聞に限らず日本のマスコミは、日本人のことだけ心配していて、他の国のPKO要員はまるで死んでもいいかのようだ。「ポト派の武力にひるんでいては、それこそポト派の思うつぼだというのは、その通りかもしれない。しかし、選挙監視に日本から加わる人たちは、PKO協力法に基づく国の意思として派遣されるのだ。この人たちの安全について、政府は責任を負っていることを確認しておかねばならない。」(5月7日社説)

 だがワシントンにいる吉田慎一特派員は、5月16日付の紙面で次のように伝えている。

 ニューヨーク・タイムズは「もっと多くの死者を出しているフィリピンなどより、自国の軍隊の安全を重視しようとしているとの批判が浴びせられている」と指摘する一方、戦後の平和憲法のもとで培われた「国民風土」が背景にある、と報じた。

  日本は何か特別という意識がある。唯一の被爆国で、平和憲法を持つ平和国家だ、絶対に日本は戦争をしてはいけないと思っている人が多い。

・戦争はなくせない
 私は、戦争はいけないと思う。軍隊もない方がいい。だけれども、日本に軍隊がなくていいとは思わない。「憲法9条の地球化」(5月3日社説)ができればいいけれども、そんなことは人間の本性からいって、無理だろう。

 他の国に「日本のように憲法に戦争禁止の条項を入れて、軍隊を廃止しましょう」なんて言ったら、きっと「そういう日本が先ず自衛隊をなくしたらどうですか」と言われるだけだろう。

 日本は唯一の被爆国ではない。アメリカや旧ソ連には核実験によって被爆した人がたくさんいる。憲法は9条だけではないので、平和憲法や「不戦憲法」(3日社説)という言い方はあまりに不正確だ。

 3日の社説に次のような一節がある。

 歴史を掘り起こして改めて考えてみる。例えば、江戸時代の鎖国は「日本の進歩を遅らせた」と否定的に見られがちだが、半面、二、三千万人の人口を抱えて対外戦争もせず、三百年近くも平和を維持した社会は、世界史的には珍しい。
 その江戸時代の「和」の精神が、戦争の放棄を定めた憲法九条に対する国民の圧倒的支持につながっているのではないか、との説を上智大の藤村道生教授が唱えている。(『司法書士』九二年十二月号「日本歴史の伝統のなかの憲法第九条」)

 こういう意見には閉口してしまう。では江戸時代と現在に挟まれた15年戦争はどういうことになるんだろうか。結論が先にあって、後から論拠を探してきた最低の論じ方だ。

 ともかく日本は平和的な国だと言いたいのだろう。だが、こういう議論に納得してしてしまう人は、あまり頭がいいとは思わない。

 こういう議論を聞いていると、私はやりきれない気持ちになる。理想としてはそうだけれども、実現できるかどうか殆ど考えていない。「平和、平和」と言いながら、日本人のことしか考えていないこともある。

・湾岸戦争
 こういった視野の狭い議論は今回が初めてではない。湾岸戦争の時にも見られた。イラク軍と他国籍軍との戦闘が始まると、「戦争はよくない、アメリカは好戦的だ」という妄説が日本を覆った。

 アメリカ一国がイラクと戦ったのではなく、国連安保理の議決に則って、イギリス・フランスとも相談した上でイラクに対する攻撃を始めたのだ。戦闘には参加しなかったが、ペルシャ湾に軍を派遣した国は10前後あった。それなのに「アメリカは好戦的だ」というのだから本当に話にならない。

 朝日新聞の記事には事実無根はなかったが、世論をそういう方向に誘導したことは確かだ。朝日の見出しを毎日見ていると、私のような者も何となくアメリカが悪いという気になった。誤りは全くないが、読者にアメリカが悪いと思わせた。朝日新聞は情報操作の天才である。

 もともと悪いのはイラクである。隣国クウェートに攻め込んで「ここはわが国の領土である」と言ったのは、イラクである。そのイラクよりアメリカの方が悪いというのは、暴論である。アメリカの国務長官ベーカーがウィーンで「1月15日までにクウェートから撤退すれば、何もなかったことにするから」と言っても拒否したのはイラクである。

 戦争をしないで経済制裁を続けるべきだという意見もあった。今でもイラクに対して経済制裁を科しているが、フセインは健在である。経済制裁が効果をあげたことは歴史上一度もないというから、そういう意見はかなり無責任である。

 日本ではいつものことながら、一番大事なことが忘れられていた。クウェート人のことだ。クウェート人はイラク軍に殺されつつあった。経済制裁が効果をあげるまでに、クウェート人が皆死んでしまったらどうするつもりだったのか。戦争という形でなければ、殺人を容認するのか。

 人が死んだり、苦しんだりするから戦争はいけないのだ。戦争には反対するが、虐殺を黙認するというのはどうかしている。戦争には絶対反対だと言いながら殺戮を容認する人は、戦争という言葉の「奴隷」になっている。日本にはそういう「奴隷」が多い。

・生徒が不勉強
 8月31日の社説と9月3日の天声人語は、英語教育を取り上げているが、同じく一番大事な点を忘れている。

 それは、学習者の努力だ。どんなに教師が優秀でも、どんなに教材がよくできていても、生徒一人一人が一生懸命勉強しなければ、決して英語はできるようにならない。この一番大事なことが、日本の議論ではなぜかすっぽり抜け落ちている。

 そもそも外国語は何語であっても、とても難しいものだ。先ず発音が違う。文字が違うこともある。文法が違う。それなのに、日本人は外国語はそんなに難しくないと思っているようだ。「アメリカに行けば子供だって英語を話している」などと英語を馬鹿にする人もいる。主要な現代語の中で一番難しいと言われているロシア語だって、ロシアに生まれ育てば誰もが一応話せるようになるのに。

 日本語と英語は文字も違うし、文法構造が全く違うから、日本人は英語ができないのではないかと言う人がいるが、同じ漢字を使っている中国語もかなり難しい。

 中国では、簡体字という日本と違う省略体を使っているので、見慣れない字が多い。発音も難しい。音素(最低限区別すべき母音と子音)の数も多いし、漢字の読み方がすごく覚えにくい。

 漢字を全く知らない欧米人に比べたら、中国語は日本人に簡単だろうが、真剣に取り組まなければ何年やってもちゃんとできるようにはならないだろう。

・文法をしっかり教えていない
 生徒がしっかり勉強していないだけでなく、教師もちゃんと教えていない。

 先ず、教師は「日本語が下手」(天声人語)である。旺文社の大学受験講座を聞いていると、国語と数学の教師は理路整然と話しているのに、英語の教師は話しが余りうまくない。最近はかなりよくなったが、以前はひどくて、とても分かりにくかった。

 また、言葉遣いが不正確で、説明の仕方が下手なだけでなく、教える内容自体に、かなり問題があると思う。特に英文法の教え方がひどい。

 文法偏重という批判もあるが、文法偏重だなんてとんでもない。現実は逆で、文法をまともに教えていない。だから英語ができない、英会話もできない。私は大学では英文科にいたけれども、英文法が一通り分かっていた友人は余りいなかったように思う。

 最近、ある翻訳の勉強会で中学の英語の教師をしていた人二人と会ったが、二人とも英文法の基礎が分かっていないようであった。私が文法用語を口にすると、他の出席者も含めて皆「文法は分からない」といった顔をしていた。文法は分からないが、勘で何とか訳しているのだ。だから、時々とんでもない訳をする。元英語教師の一人は勘もさえていなくて、荒唐無稽な訳を随分書いていた。

 公立中学では、文法用語を使って英語を教えることは殆どない。だから、「英文法に偏った英語教育」(天声人語)というのは事実に反する。

 中学では文法をしっかり教えない。だが高校では、中学程度の文法は分かっているものとして授業が進められる。だから日本人は英文法も分からないし、英会話もできないのだ。

 文法は難しいものだ。文法用語は分かりにくい。だからしっかり理解していないと、チンプンカンプンになる。それなのに、日本の中学校でも高校でも英文法を系統的に教えていない。「文法ばっかりやっていて、簡単な会話もできない」という不満は、こういうことを背景にして出て来た的外れな批判である。

 「文法なんかいらない」という意見もあるが、文法が分からない人の負け惜しみだろう。文法をやらずして、どうやって外国語をものにしようというのか。

 文法は譬えて言えば、スポーツのルールのようなものだ。ルールが分からなければ、競技に参加できるわけはないし、観戦していてもつまらない。ルールは絶対に知らなくてはいけない。(文法規則は英語でgrammatical ruleと言う。)

 文法も同じである。外国語ができるようになるにはどうしても必要なものだ。それなのに文法なんか必要ないと言う人が多い。文法を無視して英語ができるようになろうとする人もいる。愚かだ。

 その重要な文法を日本ではしっかり教えていないのだ。

 例えば、動詞がよく分かっていない生徒は、不定詞を教わったらかなり混乱するだろう。だいたい不定詞という用語が分かりにくい。そういう品詞があるのかと思ってしまう。更に、不定詞の形容詞的用法や副詞的用法が出てきたら、チンプンカンプンかも知れない。

 先ず、品詞の分類をしっかり教えなければならない。品詞は文法の基礎だからだ。だが、日本の品詞の教え方は本当に下手だ。最初にどういう品詞があるか、しっかり教えるべきだ。英米の学校文法にならって八品詞とすれば、英文法には名詞、代名詞、動詞、形容詞、副詞、前置詞、接続詞、間投詞の八つの品詞があると教える。先ず、これを丸暗記しなくてはならない。

 次に、各品詞を説明するわけだが、この説明の仕方がほんとうに下手である。

 名詞は物の名前を表すとか、動詞は動作を表すとか説明することが多いが、これでは余りに適用範囲が狭い。「机」や「本」は物の名前だから名詞だということはすぐ分かるが、では「美」とか「真理」は物の名前ではないから名詞ではないかというと、名詞である。

 「動く」や「起きる」は、動作を表すから動詞であることは誰にでも分かるが、「感じる」や「思う」は精神活動を表すから動詞ではないかというと、動詞である。

 動詞は動作や精神活動を表すといっても充分ではない。「ある」はどちらでもないが動詞だからだ。意味によって品詞の定義をすることには限界がある。

 英語には八品詞あって、30万、40万ある英単語は全て八つのどれかに属すと説明すればいいのである。品詞を一つずつ定義しようとしても、うまくいかない。全体を捉らえなくてはいけない。

 他にも、文法教育には問題がある。subjunctive moodは仮定法と訳すことが普通だが、接続法と訳さないと詐欺になることがある。bare infinitiveを原形不定詞と訳すのは、大間違いだ。toなし不定詞とすべきである。文法用語の訳がおかしいのだから、日本人に英語ができる人が極端に少なくても何ら不思議はない。

 「教師が話せないから、生徒も話せない」という見方もあるが、これは本当に見当違いだ。私は中学生の時、英会話ができると自慢していた教師二人に英語を教わったことがあるが、二人とも教えることに熱心ではなかったし、説明が下手でひどい目に遭った。一人は和訳もしないで、教科書を読んでばかりいた。

 「英語はあまりできない」と白状していた先生の方が、一生懸命教えてくれ、為になった。(おかしなことを教えられたこともあるが。)

 また、私が英語を教えた経験から言うと、生徒に会話を教えようとしても駄目だ。ごく簡単な英文でもノートを見ないと言えない。読む練習が足りないからだろうが、生徒に英語を話せるようになろうという意欲がないことも事実である。勉強だからやっている、試験があるからやっているのである。

 だから「文法や読解中心で育った教師に、明日から会話教育を求めても」(社説)実行に移せる訳はない。

 日本人は、英語に対して真面目でないのである。だから英語ができない。

・外国語の読み方
 英語に対していい加減なのは、英語教師や生徒だけではない。朝日新聞もそうだ。

 Reagan氏がアメリカの大統領になったとき、リーガンと言われていた。財務長官にReganという人がなって、こちらもリーガンでどうなっているんだと、マスコミが混乱したことがあった。予備選から就任式まで一年以上、ずっとレーガンと言わずに、リーガンと言っていたんだから、呆れる。人名の読み方なんかどうでもいいと思っているんだろう。Shultz元国務長官もシュルツでなくショーツである。

 マスコミ自身がこの体たらくなのである。中学生が英語に熱心に取り組まなくても何ら不思議はない。

 湾岸戦争で活躍したアメリカのSchwarzkopf将軍は、シュワルツコプではなくシュウォーツコプだ。‐war‐はウォーと読まなくてはいけない。日本のマスコミ関係者はGulf Warをいつもガルフウォーでなくガルフワルと言っていたのだろうか。英語の読み方には全く気を使っていないようだ。因に、schwarz Kopfはドイツ語で「黒い頭」という意味である。

 ドイツ語の読み方もおかしい。7月22日朝刊1面にドイツのWeizsäcker大統領の単独インタヴューが載った。ワイツゼッカーとなっていたので、読む気がしなくなった。ヴァイツゼカーとすべきだ。wは英語式に読んで、他はドイツ語式に読んでいる。

 Baden‐Württembergというドイツの地名を、バーデン=ブュルテンベルクと表記していたことがあったから、不統一だ。高木新記者はドイツにいるのにドイツ語の読み方も知らないのだろうか。本当はヴァイツゼカーが正しいことぐらいは知っているのだろう。それなのに朝日新聞はおかしな社内規則のために正しい表記ができない。

 9月18日の「赤えんぴつ」によると、原則としてヴは使えず、ブのみだそうだが、完全に時代遅れである。

 私は新聞を読んでいて「ワイツゼッカー」が出てきた途端、その記事を読むのを止める。バカらしくて読んでいられない。そして自分にこう言い聞かせる、「これは間違い。正しくはヴァイツゼカー。」こうしないと私自身が間違って覚えてしまいそうになる。大変な手間だ。

 大学の独文科の教師や学生はこういう間違いをどう思っているだろうか。ドイツに関する記事なら全て読んでくれるかも知れないこういう人たちを呆れさせて、新聞離れを心配するなんて愚かしい。

 因に聖教新聞はヴァイツゼッカーと書いている。宗教団体の機関紙なんかに負けていていいのか。

 日本語の表現や表記もひどいことがあるが、気を使ってはいる。だが、外国語となると途端にこうである。こういう態度も外国語ができない原因のひとつだと思う。日本人は外国語をそのまま受け入れようとしない。外国語の論理を尊重しようとしない。

 社説が載ったのと同じ日の8月31日の朝刊テレビ欄に三井ホームが広告を出している。そこにはLove is interior.という日本語に訳すこともできない英語もどきが書いてある。

 週刊新潮に群盲という言葉を使わせず、落合信彦氏の本の広告に髑髏が写っているからと、そのまま広告を載せさせないようなことをしているのに、どうして日本語に訳せもしないような和製英語を大きく紙面に載せるのか。

 結局、群盲や髑髏には読者からたくさん苦情が来るが、和製英語にはあまり苦情が来ないからだろう。だが苦情が来なければそれでいいのか。三井ホームのこの広告はかなり前から何度も朝日新聞に出ている。9月20日にも載った。三井ホームも日本語には気を使っているのに、意味不明の英語を書くんだからどうかしているが、いくら社説で英語教育の改革を訴えても、これでは説得力もないし、日本人の英語力も向上しないだろう。

 日本人のこういう英語に対する態度が、英語のできない原因のひとつではないだろうか。イメージアップやナイターなどの和製英語をこれから追放することはできないけれども、今後はおかしな英語は断じて使わないようにすることが、是非とも必要である。


 最近の社説は読み易くなった。2、3年前迄は「しなければならない」とか「すべきである」とかいった表現ばかりで、説教をされているような気分になった。「自分達の言う通りにしていれば、世の中全てうまく行く。」といった傲りを感じた。最近はそういうことは少ない。毎日の記事はどうしても断片的になってしまうので、出来事の背景や経緯をもっと説明する方がいいと思う。

  1993年10月14日
                                                             跡見 昌治

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