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朝日新聞に出した手紙(6)偏差値虚報を批判する [朝日新聞に出した手紙]

【1994年03月03日】-朝日新聞は、まだ「偏差値病」が直っていない。

 1993年11月21日付の社説は、相変わらず偏差値をキーワードにして論を進めている。偏差値という言葉が六回も出てくる。「偏差値に縛られて」いるのは日本の教育ではなくて、マスコミの方ではないだろうか。

 先ず、なぜそんなに偏差値にこだわるのだろうか。偏差値がなくなれば、万事解決するのだろうか。偏差値をなくしても、学力や学歴はなくならない。偏差値は学力を表すひとつの指標だ。偏差値をなくしても何も解決しない。

 また偏差値をなくそうとしても、なくせない。93年11月16日付朝刊に「中3の会場テスト結果、偏差値に変換 生徒進路指導に担任教師が使う」という記事が載っている。偏差値は学校間の格差や学年間の格差のない指標だ。客観的で便利だ。なくなる訳はない。

 11月13日付朝刊の「合格させます、生徒推薦おねがい 都内私立高、埼玉の塾に」という記事には「東京都内の一部の私立高校が埼玉県内の塾に対し、業者テストの偏差値による生徒の推薦を依頼していることが十二日、分かった」と書いてある。

 また、9月6日付の朝刊(大阪版)「偏差値認める意見が続出 中国5県教委委員長会議」という記事には、「山口県の八木宗十郎委員長が、生徒一人ひとりの学力の位置を的確につかむため、偏差値は有効な手段と強調、『偏差値、順位を出さない試験は意味があるのか』と発言」と書いてある。

 偏差値をなくそうとしてもなくせないだろうし、たとえなくしても成績や学歴は残る。

 社説が、偏差値に反対するのは、偏差値が象徴する受験競争や「序列化」(社説)を是正するためだろう。だが、偏差値を追放しても、そういう問題は解決しないと思う。

 日本では、成績や学歴によって人の価値が決まってしまう。小学校の時は成績が悪くても元気がよかった友達が、中学では随分しょんぼりしていたのを憶えている。母親が子供に「勉強しなさい」と口やかましく言うのは、子供の成績によって母親の地位も決まるからだろう。だから、「人間の評価を多面的にし、個性を重視し」(社説)なくてはいけないのだが、偏差値をなくしてもこうはならないと思う。

 中学の時は成績で子供と親の地位が決まり、高校の時は行っている高校で価値が決まり、大学の時は大学名と学部で地位が決まる。大人になると、勤務先で社会的地位が決まる。人柄や性格を判断できない訳ではないのに、日本ではなぜか所属団体でその人の地位が決まり、能力が判断される。

 こういう大きな問題が受験競争の裏にはあるのに、偏差値だけ攻撃している人の気が知れない。

・「偏差値教育」という表現
 また、偏差値教育といった言い方はいいだろうか。93年11月15日付夕刊文化欄「生徒参加権認める『学校論』(取材ファイル)」の中には偏差値教育という言葉が、二度も出てくるけれども、これではまるで日本の中学生や高校生は毎日偏差値のことばかり考えて生きているみたいだ。最近、女子高生の売春が取り上げられているが、こういう高校生は偏差値なんか気にしないで生きているだろう。

 マスコミが、偏差値、受験とばかり騒いでいると、受験しない生徒は半人前ということになる。高校進学率も100パーセントではないし、大学進学率は50パーセント前後だ。日本の中高生は誰もが受験のために苦しんでいるかのような報道が、受験しない生徒をどれほど追いやっているか分からない。「日本は経済大国なのに、なぜ電車は混み、家は狭いのか」と言うと、田舎に住んでいる人は日本に住んでいないことになるのと同じである。

 また、18歳人口が減るために、大学が潰れるのではないかと言われているが、そんなことはあり得ない。大学に行きたくても行けない者が、専門学校に行くからだ。専門学校は潰れても、大学は潰れないだろう。94年1月4日付の「時時刻刻」は、大学の学費据え置きを18歳人口の減少と結び付けて、「生き残り策」と書いているが、今年学費を据え置かないと大学が潰れるのだろうか。

 こういう風に、報道までが大学中心だから、誰もが大学に行こうとし、受験競争は激化する。受験競争を批判するマスコミが、競争を余計ひどくしているように思う。

 確かに、「点数競争」(社説)はよくない。だが、学校はそもそも何をする所か忘れているのではないか。学校は、勉強する所だ。国語や理科や社会の勉強をする所だ。漢字が書けなければ会社には勤められない。理科や数学ができなければ、エンジニアにはなれない。社会ができなければ、選挙の時正しい投票ができない。

 学校では、道徳や人づきあいなども学ぶけれども、こういう机の上での勉強が中心だ。だから、「大学進学率を高めようという一部地域での学力向上運動」(社説)がどうしていけないのか、全く分からない。勉強をすることのどこがいけないのか。こういう基本を踏まえていない報道が、日本人をどれほど呆れさせているか。

 受験勉強は、一人一人が選択して行っていることだ。マスコミ報道はまるで、受験勉強が悪いことで、麻薬を打っていることのように言う。勉強し過ぎて心身に異常を来してはいけないが、勉強をすること自体はいいことだ。

 社説も言うように、「大切なのは、『どこに入れるか』ではなく、『どこで何を学びたいか』」である。

 勉強したくもないし、やりたいことがある訳でもないのに、大学に行く人が多いのが私には信じられない。大学は本来学ぶ所であるということを忘れている人が余りに多い。

 本当の「敵」はこういうことなのに、偏差値を「敵」にしてしまっている。これでは日本の教育はよくならない。

・「激動病」
 この社説は「変革期にどう進路を選ぶか」と題し、本文には「高校自体が激しく変化しつつある」「今の受験生は、教育の大変革期の始まりに直面している」とあり、変化が強調されている。

 先ず、「大変革期の始まりに直面している」ということは、これから大きく変化するということだ。これは一種の予測である。予測は余り当たらないし、客観的報道とは言い難い。

 また、国際化や福祉などの新コースの設置程度で、激しく変化していると言えるだろうか。明治5年の学制公布や GHQ の行った学制改革に較べたら、この程度の変化は微動ではないだろうか。

 日本はいつも激動の時代だ。10年くらい前からならはっきり憶えているが、日本は毎年、激動の時代だ。人が生きているんだから、変化はあるだろう。江戸時代に較べたら、ここ数十年は大きく変わったのだろう。

 だが、天安門事件があったから激動の時代、冷戦が終わったから転換期、湾岸戦争があったから激動の時代、業者テストが公立中学から締め出されたから変革期というのでは、冗談なんだか酔っぱらいのたわごとなんだか分からない。日本では常に変革期、過渡期だ。歴史家までそんなことを言っている。(93年11月20日付夕刊文化欄)私は絶望を通り越して、生きているのがいやになる。

 上に書いたことは、歴史に残る出来事ではある。だが、それをもって激動の時代とは言えない。そういう考え方をしていると、毎年激動の時代ということになる。

 94年1月3日折り込みのPR版でも、変化がひどく強調されている。見出しには「変革の94」とある。これもいい加減な予測である。天下の朝日新聞がこれでは、日本人は現代がどういう時代なのかさっぱり分からない。

・個性重視はいいのか
 この社説では個性と多様性が強調されているが、現在の日本の教育に求められているのは、個性や多様性ではなく質の向上ではないだろうか。

 いくらカリキュラムが多様になっても、授業の質が低くては何にもならない。外国語の選択の幅が広がり、中学でドイツ語やフランス語を教えても、相変わらず教え方が下手では意味がない。

 また、カリキュラムが多様になると、いろいろ問題が起きるだろう。英語よりドイツ語で高校を受けた方が有利になるとか、フランス語で受験できる高校は少ないとか。

 日本史のカリキュラムに関して、高校では近現代だけ教えてはどうかという意見を聞いたことがあるが、実際にそうすると学校で教えてくれないことは塾や予備校に通って習うことになる。塾通いが激化する。教え方は多様でもいいが、教える内容は大体同じにしておかないと、新たな問題を引き起こす。

 国公立大学の入試は、中曽根元首相が数回受験できるようにしてから、多様にはなったが複雑にもなった。ともかく多様にすればいいという訳ではない。

 社説に「個性が重んじられる時代」とあるが、個性なんか重んじられているだろうか。テレビを観ているとよく、「どこにでもいる中学生」といった言い方を聞くけれども、私はどこにでもいるような平凡な人には会ったことがない。誰もが強い個性を持っている。朝日新聞にもそういう表現を見かける。

 例えば、93年12月の東京版に「悪女はささやく」という連載があったが、12月9日付の分に、ボーイフレンドから指輪を7つも貰い、アルバイトで月に14、5万稼ぐ女子大生が出てくる。この女子大生のことを「ごく平均的な大学生」と書いているが、こんな女の子の一体どこが平均的なのか。父親がサラリーマンなので平均的と言うのかもしれないが、それだけで平均的と言ったら日本は平均的な人ばかりになってしまう。

 個性が大事と言うマスコミ自身が、個性を尊重しないで、日本人はみんな同じであるかのように言う。そういうこともあって、日本人は皆自分と同じだと思っている。だから、成績や学歴をすごく気にするのだろう。人は皆違うんだと思っていれば、そういうことは余り気にならないのではないだろうか。

・デタラメ
 11月15日付の「生徒参加権認める「学校論」(取材ファイル)」には「幸福論議の中で、皆で汗を流しながら幸福とは何かを探していく過程こそが『授業』なのだと夜間中学教師に気づかせる。いまの学校に多い『授業のマニュアル化』や『教育技術の法則化』に熟達しているプロ教師に対する痛烈な批判になっている。」とあるが、この記者はなんてふざけているんだろう。中学で狭い意味での勉強をしないで、「幸福とは何かを探してい」たら、朝日新聞には入社できないだろう。

 どうしてこんなに馬鹿げたことが言えるんだろうか。授業をちゃんとしない問題教師を責めないで、マニュアルを使ったり、教え方をいろいろ研究している教師を非難するのは異常ではないか。マニュアルを使っているというだけで非難することこそ、マニュアル的である。

 11月16日付の「中3の会場テスト結果、偏差値に変換 生徒進路指導に担任教師が使う」という記事には、「昨年までのような偏差値による輪切り指導ができる」と書いてあるが、偏差値がなくなっても、成績によって受験校が決まる。

 また、高校は勉強をする所だから、成績で合否が決まって当然である。マスコミ人や一部の人を除いて、誰もがそう思っている。だから、受験競争は続いている。こういう現実から遊離した報道はいい加減やめた方がいい。一般の日本人はこういう議論にどれほど呆れているか分からない。新聞が読まれなくなってしまったことの理由のひとつだ。

 またこの記事には「職員室の机の上には解説書が積み上げられているという」ともあるが、いかにも悪いことをしているといった書き方である。自分の目で確かめていないことをわざわざ書く必要があるだろうか。

 この記事の下には、『週刊朝日』の広告があって、そこには「国公立大人気は本物 133大学の最新偏差値」とある。中学生は偏差値を使ってはいけないのに、週刊誌は使ってもいいのか。これでは朝日新聞は絶対信用されない。『週刊朝日』はまた東大などの合格者の名簿を載せるのだろう。偏差値反対、受験反対というのは口だけではないか。

 朝日小学生新聞の折り込みチラシには、「受験に役立つ」などと書いてある。こんなことでは、マスコミが信用を落とすだけで、教育は改善されない。

 私は偏差値は一応容認するが、成績や学歴で人の価値が決まってしまうのはおかしいと思う。受験は肯定するが、週刊誌が合格者の氏名を掲載するのはいけないと思う。一番おかしいと思うのは、勉強したくもないのに大学に行く人が多いことだ。本当に勉強したければ、大学のレベルなどどうでもいいだろう。

(94年1月31日付朝刊社会面に「高校入試の“脱偏差値”」と見出しにあるが、脱偏差値ではなくて脱業者テストである。こういうほんのちょっとしたことが積み重なると、大きな間違いを生んでしまう。) 

・表記について
 朝日新聞は、動物や植物の名前を片仮名で書くことが多い。例えば、93年11月11日付朝刊の主張解説面に捕鯨の記事が載っているが、「捕鯨」であるのに「クジラ」となっている。音読みする時は「鯨」で、訓読みの時は「クジラ」というのは奇妙きてれつだ。

 最近はこういう表記にも慣れてしまったが、初めて「捕鯨」と「クジラ」を見た時のなんとも言えない奇妙な感情を今でも憶えている。

 この記事では他に、「子ウシ」「子ヒツジ」というのも出てくる。このふたつは一瞬何と書いてあるか分からなくて、紙面を睨みつけてしまった。

 もし「クジラ」や「子ウシ」のみが正しいならば、「鯨」や「子牛」は間違いということになり、日本の学校では嘘を教えていることになる。

 こういうのは、本当に新聞を読む気をなくさせる。「子ウシ」がおかしいのは小学生にだって分かる。

 今まで朝日新聞に5通手紙を書いて、いろいろなことを主張してきたけれども、実はこのことが一番、新聞離れを引き起こしていると思う。「子ウシ」がおかしいのは、誰にでも一目瞭然だ。

 動物学や植物学では、片仮名で書くのが普通だから朝日以外の新聞もそうしているのだろうけれど、新聞は動物学の論文ではない。中学生も文学者も読むものだ。

 それなのに、専門家が片仮名を使っているから、新聞も使うというのは余りに短絡的ではないか。

 同日11月11日付の29ページのふすま絵の記事には「総ヒノキ造り」とでてくる。ひのきは外来語ではない。和語だ。だから片仮名で書くのはおかしい。そもそも、和語を片仮名で書いて漢字で挟む人の神経が信じられない。

 93年11月19日付夕刊に「白鳥の季節、今年も 冷害…逆に食べ物は豊富 新潟県水原町の瓢湖」という記事では、「白鳥」と「ハクチョウ」が出てきて、奇妙である。さすがに「ハクチョウの季節」とは書けないので「白鳥の季節」としながら、一方で「ハクチョウが先月初めから次々と飛来し」と書いてある。

 こういう矛盾が起きるのは、「ハクチョウ」という表記に無理があるからである。

 「籾」も「鴨」も、和語なのに片仮名で書いてある。また、漢字で書けばどれも「餌」なのに、「え付け時間」「エサ取り」「給餌場」となっている。常用漢字以外には振り仮名をつけなければいけないから、漢字で書くと面倒だったり煩雑になったりするが、これは余りにひどい。

 この問題に関して注目すべき記事が94年1月14日付朝刊の主張解説面に載った。「カタカナはんらんの現代 動植物名が加速」という記事だ。

 朝日の記者の手になる批判が紙面に載るのは極めて珍しい。それだけでも評価に値する。だが、社内に対する配慮のようなものが感じられる。漢字を使わないで片仮名を多用するのは、「敗戦直後の漢字制限に源がある」と政府のせいにしてしまっている。

 「カタカナ書きは投書欄などでも見られるが、新聞の取り決めは、漢字では表せない場合の例外規定である。だが、現状では猫、蛇、蛍などの動物や、桜、杉、菊などの植物はしばしばカタカナだ。新聞社の一員として、表記のばらつきをはばかるばかりだが、教科書の影響が大きい」ともある。

 「桜」や「杉」など常用漢字で書ける語まで片仮名で書くことにしているのは、朝日新聞である。そのことが、社内に対する配慮のためか、はっきりと出ていない。

 また、この記事の中にも漢字や平仮名で書くべき語が、片仮名で書いてある。先ず、「カタカナ」でなく「片仮名」のはずだ。また「洋ラン」でなく「洋蘭」か「洋らん」とすべきである。

 例として箇条書きになっているものの中にも、「花咲ガニ、紅ザケ、玉ネギ、ニシキ蛇」など、和語なのに片仮名で書いてあるものがある。

 「米」を「コメ」と書くことも指摘しているが、これは「米」と書くと米国との区別がつきにくいからだろう。そういう説明を紙面で見たことがある。この表記は合理的である。

 この記事が掲載された後も、相変わらず常用漢字で書ける語も片仮名で書いている。「サクラ」より「桜」の方が、字数も少なくて済むではないか。これではこの記事は、読者の不満をそらすためのガス抜きでしかない。日曜の「私の紙面批評」も、そういうふうに使われているような気がする。

・同音異義語
 93年7月3日付の朝刊の「赤えんぴつ」は同音異義語を扱っているが、同音異義語の書き分けが簡単にできると考えているようで、びっくりした。

 「責任は追及し、利潤は追求する」とあるが、『三省堂 新明解国語辞典第四版』には、「追求」の第三語義として「追及」とあり、「責任の追求」という用例が挙がっている。

 私は「意思」という表記を朝日新聞で初めて見た。高校までこんな表記は見たことがなかった。「考え、思い」を意味する時は「意思」で、「成し遂げようとする心」という意味の時は「意志」と書き分けようとするのは無理だ。

 『新明解』では「住民の意志を尊重する」「意志の疎通を図る」「意志統一を図る」と、朝日や他の新聞が「意思」とするところで「意志」を使っている。そして、「意志は意思とも書く」と注記してある。法律の世界では「意思」が普通のようであるが、他の分野では「意志」が普通である。

 「体制」と「態勢」の区別も簡単にはできないだろう。『新明解』には、「体制固め」と「態勢を固める」と出ている。こういう区別にうるさい読者がいるのだろうが、漢字は元々かなりいい加減だから、書き分けしようとしてもし切れない。 

 漢字には、意味も発音も同じなのに字形が少し違う異体字というのがある。大阪の阪は常用漢字に入っていないが、坂の異体字である。峰と峯、杯と盃、涙と泪もそれぞれ正字と異体字である。

 だから、93年6月12日の「赤えんぴつ」は、よく調べてあるが、本質をつかみ損ねている。厩という字には、異体字がいくつかあるだけでなく、部分的に新字体に書き換えられているので、たくさんの字体があるのである。本来この字は中が皀なのだが、既という字にならって一部分を置き換えた字体も、使われているのである。

 熟語の書き方も何通りもあることがある。「意識がもうろうとする」と言う時、曚朧、朦朧、矇朧と三通りあるようだ。

  ファーストフード店ではマニュアル通りの応対しかできないという批判をよく目にするが、朝日新聞は間違いのあるマニュアルに縛られているように思われる。

1994年3月3日                 跡見昌治

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タグ:朝日新聞
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