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朝日新聞に出した手紙(7)=ドイツ語の読み方 [朝日新聞に出した手紙]

 【1994年05月09日】-94年4月7日付夕刊文化面の「単眼複眼」は、「ロマンスの神様」のヒットを取り上げている。見出しに「大ヒットはCMソングゆえ」とあるように、音楽と企業のタイ・アップを不当に強調している。

 確かにこの曲はアルペンのCMソングとして、テレビから多量に流れたが、曲を中途半端なところで切っていたので、どういう曲だかあれでは殆ど分からない。こんなCM,いくら流してもヒットを生まないだろう。

 この文章からすると、CMソングに使われてテレビから多量に流れると、どんな曲でもヒットすることになる。実際にはそうではない。

 広瀬のファースト・シングル「愛があれば大丈夫」は、映画「病は気から 2」のテーマ・ソングになっただけでなく、ビジネス専門学校のCMソングにもなった。が、あまり売れなかった。

 西田ひかりは最近三菱電機のCMに続けて出演し、CMソングも歌っているが、大ヒットは出ていない。

 「歌詞の内容は単純な女の子の出会い願望にすぎない」とあるが、今の歌は大抵こんな内容である。カルピスのCMソングに使われている山下久美子の歌は、「好きよ、好きよ」と繰り返しているだけだ。

 シングルとほぼ同時に発売されたアルバム“SUCCESS STORY”は、「ロマンスの神様」を収録しているが、売上げは2位を記録した。タイ・アップだけで、アルバムまで売れるだろうか。

 この曲がヒットしたのは、歌がいいからだ。特に歌詞がいい。先ず、ロマンスの神様というアイデアがいい。「ロマンスの神様 この人でしょうか/どうもありがとう」という歌詞は斬新だ。他力本願でしょうがないが、占い好きの若い女の共感を得たのだろう。

  「性格よければいい、そんなの嘘だと思いませんか」という歌詞は、呼びかけていて面白い。

 また、広瀬の歌唱力もヒットと関係あるだろう。これだけ歌のうまいシンガーは、日本には他にいない。

 広瀬のことを「実力派」と評しているが、「ヒットの秘密」を主にCMソングに採用されたからとしている。この記事を読んだ音楽関係者は、「やはりCMの効果は大きい」と勘違いするだろう。正しい批判をして悪い傾向が強化されるのは仕方がないが、不当な批判をして状況が悪化したのでは、一体何のためにこの記事を書いたか分からない。

 今の女性シンガーには、ショート・カットが多い。ヒットの理由にならない。

 広瀬は明るくない。5歳の時から強制的にピアノと作曲を習わされた。毎日のように教室に通わなくてはいけなくて、友達と遊べなかった。今だにその頃のつらい思い出を引きずっているようだ。

 ロス・アンゼルスに留学していた時、歌は下手だし曲の売り込みはうまくいかないしで、毎日泣いていたという。

 だから広瀬はクラシックは嫌いだし、ポップスもあまり好きではない。音楽が嫌いな音楽家。不幸である。

 テレビの歌番組は少なくなったが、なくなってはいない。テレビ朝日は、金曜日の午後8時から「ミュージックステーション」を放送している。他にも歌番組は少数ながらある。「ない」と「少ない」の区別ができない新聞記者は、歌の下手なアイドル歌手のようだ。

 確かに多くの歌がCMやテレビ・ドラマの主題歌に使われていることは、嘆かわしい。だが、そんなことはどうでもいい。

 15年ほど前、作曲家の宮川泰氏は朝日新聞の「サウンド解剖学」という連載で、「歌手は発声をよくしないと、歌謡曲は衰退するぞ」と警告を発していた。歌謡界はこの警告を無視したため、演歌とニュー・ミュージックを除く狭義の歌謡曲は消滅しかかっている。

 近年ニューミュージックの連中も、発声がよくなるどころか、悪くなった。T-BOLANやWANDSなどは、声の出し方が気持ち悪くて聞いていられない。

 最近ガール・ポップという言葉をよく聞く。女性シンガーの歌をこう呼ぶ。このままでは、狭義の歌謡曲だけでなく男性ヴォーカルもひどく衰退するだろう。

 コラムニストとも称する山崎浩一氏は、音楽そのものにはそれほど詳しくないのだろう。こんな人の意見に「隷属」している方が、よっぽど「堕落」である。

・「ビット」と「バイト」
 以前から気づいていたのだが、経済面のコンピューターのメモリーに関する記事で「メガビット」と書いているが、メガバイトが正しい。ビットとバイトは全く違う。

 ビットは普通、パソコンなどが1度に処理できる数字の桁数を言い、16ビットや32ビットという。バイトは主に記憶容量の単位で、8ビットを1バイトとしている。

 だからビットとバイトを混同することは、センチメートルとミリメートルを区別しないようなものだ。

 半導体メーカーは、発表文ではっきりとメガバイトと書いているだろうが、ビットとバイトは同じであると思い込んでいる人たちが、「メガビット」と書き替えて紙面に載せる。メーカーは抗議したいのはやまやまだが、復讐されたくないので何も言わない。そして、何年も前から何百万部もの間違いが印刷されている。

 日本経済新聞はあんなにパソコンに関する記事を載せているのに、「メガビット」である。The Japan Timesは、megabyteとしなければいけないのに、megabitと書いている。こんな単語は世界中のどんな英語辞書にも載っていないだろう。

 日本は馬鹿の住まう国だ。パソコンを使って新聞を作っている癖に、こんなことも知らないなんて信じられない。知的好奇心が全然ないのだろう。日本人に創造性が足りないとしたら、知的好奇心がないのが原因だろう。

 朝日の社内にこの間違いに気づいている人がいないのかというと、いる。当然「朝日パソコン」の編集部員は皆知っているだろう。

 夕刊の科学面では、「バイト」を何度か見た。93年10月6日付夕刊1面にメモリーカードの記事が出たが、ここでは正しくバイトとなっていた。(秋葉原ではRAMカードは不足していたかも知れないが、池袋にはたくさんあった。)

 それなのに、経済面では体系的にビットである。何とも言いようがない。この間違いに気づいている人は、日本中に何十万人もいるのに、誰も声を挙げない。みんな見放しているのだろう。

 94年4月、右翼が朝日に籠城したとき、「自由で公正な報道をしている」と言ったそうだが、こんなことも間違えていて何が公正な報道なのか。暴力を振るう者に非を認める訳にもいかないが、新聞をよく読んでいる人には通用しない言い訳だ。

・-ism の訳し方
 朝日新聞を読んでいると、時々「人種差別主義」という妙な語を見かける。これは英語のracismの訳のようだ。93年12月28日付夕刊の「米先住民襲う『環境人種差別』 核廃棄物に汚される大地・誇り」という記事では、見出しには人種差別とあるが、本文には「環境レイシズム(人種差別主義)」とある。

 raceは人種で-ismは主義だから、racismが「人種差別主義」というのでは、英語ができないだけでなく、日本語もできない。こんな日本語は聞いたことがない。

 racismは単に「人種差別」と訳すべきである。-ismには「主義」という意味もあるが、広く抽象名詞を作るのに使う。

 そもそも-ismが主義という意味だけなら、journalismは一体何主義なのか。mechanismは何主義なのか。いつだったかテレビ朝日を観ていたら、racismを「人種差別」と訳していた。入社試験は新聞の方が難しいらしいのに、こんなことがあるんだろうか。

 朝日新聞の文章は他の日刊紙に較べて、無駄がなくしっかりした言葉遣いで書いてある。だから余計にこういう間違いは目立ってしまう。

・ドイツ語を正しく読むべし
 私は93年10月に出した手紙で、ドイツ語のwをヴと書くよう主張した。確か10月中にも朝日にもヴという表記が現れるようになったが、私が一番強く要望していたことは実現されていない。ヴァイツゼカーにはなっていない。

 広告や社外筆者の文章にはドイツ語のwはヴとなっているのに、相変わらず「ワイツゼッカー」である。

 今更「名前を変える」訳にもいかないことは解る。この大統領は、そろそろ任期が切れるということなので、「ワイツゼッカー」でもいいだろう。

 10月の終わり朝日でヴを見つけたとき、私は驚き喜んだ。だが、「ワイツゼッカー」を見た時、驚き呆れた。考え方が官僚的だなと思った。

 ヴァイツゼカーでなくとも、バイツゼッカーでもよかったのである。日本語にヴという音はないので、バでもよかったのだ。肝心なことは、ドイツ語をどんなに日本語風に発音しても、「ワイツゼッカー」とはならないということだ。

 外国語の発音を正しく日本語で書ける訳はない。だが、なるべく原語に近づけるべきだ。

 ドイツ人がWeizsäckerを発音するのを聞いたら、普通の日本人には、「バイツゼッカー」と聞こえるはずだ。「ワイツゼッカー」とは聞こえない。だから「ワイツゼッカー」は間違いである。

 朝日新聞では、ドイツの地名Nordrhein-Westfalenも「ノルトライン=ウェストファーレン」となっているが、間違っている。ノルトライン=ヴェストファーレンが正しい。

 岩波文庫にはMax Weberの訳が何冊も収められているが、マックス・ウェーバーとなっているものもあるし、マックス・ヴェーバーとなっているものもある。

 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の1955年(上巻)と1962年(下巻)の訳では、ウェーバーとしているが、1989年の改訳ではヴェーバーとなっている。ヴェーバーが正しいということが判ったから、変えたのだろう。

 何が正しいか判った時点で正しく変えるのが、あるべき姿だ。

 だからといって、ドイツ語のwをすべてヴとすべきだと言うのではない。Wien を、今からヴィーンとする訳にもいかない。ウィーンが定着しているからだ。

 だが、「ノルトライン=ウェストファーレン」はまだ定着していない。だから変えられる。今変えなければ、いつまでも変えられないだろう。朝日新聞は、これから何十年も何百年も、間違いを続けていくのだろうか。

 94年4月26日27日の夕刊1面の「きょう」には、Wittgensteinが出てくる。「ウィトゲンシュタイン」は間違っている。「ヴィトゲンシュタイン」が正しい。

 5月2日朝刊国際面のベルリンの壁に関する記事に、Die Weltというドイツの新聞が出てくる。「ウェルト」でなく、ヴェルトが正しい。またドイツの大蔵大臣Waigelは「ワイゲル」でなくて、ヴァイゲルである。

 政治家や役人に「間違いを正せ」と幾ら言っても、これでは説得力がない。彼らは、「ドイツ語の読み方も知らない者が、何を言ってるんだ」と思っているだろう。本当は間違っていると知っているのに、今までのやり方を変えないためだけに正さないのだから、本当にひどい。

 4月7日付朝刊メディア面には、NHKが韓国・北朝鮮の地名を現地読みにするという記事が出ている。4月17日から朝日新聞は、ボスニア・ヘルツェゴビナの地名「ゴラズデ」を「ゴラジュデ」に変更した。ドイツ語の読み方も変えらえない新聞が、政治改革や行政改革を主張しても虚しい。

 是非、ノルトライン=ヴェストファーレン、ヴィトゲンシュタイン、(ディー)ヴェルト、ヴァイゲルに変更してほしい。

1994年5月9日                  跡見 昌治

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朝日新聞に出した手紙(6)偏差値虚報を批判する [朝日新聞に出した手紙]

【1994年03月03日】-朝日新聞は、まだ「偏差値病」が直っていない。

 1993年11月21日付の社説は、相変わらず偏差値をキーワードにして論を進めている。偏差値という言葉が六回も出てくる。「偏差値に縛られて」いるのは日本の教育ではなくて、マスコミの方ではないだろうか。

 先ず、なぜそんなに偏差値にこだわるのだろうか。偏差値がなくなれば、万事解決するのだろうか。偏差値をなくしても、学力や学歴はなくならない。偏差値は学力を表すひとつの指標だ。偏差値をなくしても何も解決しない。

 また偏差値をなくそうとしても、なくせない。93年11月16日付朝刊に「中3の会場テスト結果、偏差値に変換 生徒進路指導に担任教師が使う」という記事が載っている。偏差値は学校間の格差や学年間の格差のない指標だ。客観的で便利だ。なくなる訳はない。

 11月13日付朝刊の「合格させます、生徒推薦おねがい 都内私立高、埼玉の塾に」という記事には「東京都内の一部の私立高校が埼玉県内の塾に対し、業者テストの偏差値による生徒の推薦を依頼していることが十二日、分かった」と書いてある。

 また、9月6日付の朝刊(大阪版)「偏差値認める意見が続出 中国5県教委委員長会議」という記事には、「山口県の八木宗十郎委員長が、生徒一人ひとりの学力の位置を的確につかむため、偏差値は有効な手段と強調、『偏差値、順位を出さない試験は意味があるのか』と発言」と書いてある。

 偏差値をなくそうとしてもなくせないだろうし、たとえなくしても成績や学歴は残る。

 社説が、偏差値に反対するのは、偏差値が象徴する受験競争や「序列化」(社説)を是正するためだろう。だが、偏差値を追放しても、そういう問題は解決しないと思う。

 日本では、成績や学歴によって人の価値が決まってしまう。小学校の時は成績が悪くても元気がよかった友達が、中学では随分しょんぼりしていたのを憶えている。母親が子供に「勉強しなさい」と口やかましく言うのは、子供の成績によって母親の地位も決まるからだろう。だから、「人間の評価を多面的にし、個性を重視し」(社説)なくてはいけないのだが、偏差値をなくしてもこうはならないと思う。

 中学の時は成績で子供と親の地位が決まり、高校の時は行っている高校で価値が決まり、大学の時は大学名と学部で地位が決まる。大人になると、勤務先で社会的地位が決まる。人柄や性格を判断できない訳ではないのに、日本ではなぜか所属団体でその人の地位が決まり、能力が判断される。

 こういう大きな問題が受験競争の裏にはあるのに、偏差値だけ攻撃している人の気が知れない。

・「偏差値教育」という表現
 また、偏差値教育といった言い方はいいだろうか。93年11月15日付夕刊文化欄「生徒参加権認める『学校論』(取材ファイル)」の中には偏差値教育という言葉が、二度も出てくるけれども、これではまるで日本の中学生や高校生は毎日偏差値のことばかり考えて生きているみたいだ。最近、女子高生の売春が取り上げられているが、こういう高校生は偏差値なんか気にしないで生きているだろう。

 マスコミが、偏差値、受験とばかり騒いでいると、受験しない生徒は半人前ということになる。高校進学率も100パーセントではないし、大学進学率は50パーセント前後だ。日本の中高生は誰もが受験のために苦しんでいるかのような報道が、受験しない生徒をどれほど追いやっているか分からない。「日本は経済大国なのに、なぜ電車は混み、家は狭いのか」と言うと、田舎に住んでいる人は日本に住んでいないことになるのと同じである。

 また、18歳人口が減るために、大学が潰れるのではないかと言われているが、そんなことはあり得ない。大学に行きたくても行けない者が、専門学校に行くからだ。専門学校は潰れても、大学は潰れないだろう。94年1月4日付の「時時刻刻」は、大学の学費据え置きを18歳人口の減少と結び付けて、「生き残り策」と書いているが、今年学費を据え置かないと大学が潰れるのだろうか。

 こういう風に、報道までが大学中心だから、誰もが大学に行こうとし、受験競争は激化する。受験競争を批判するマスコミが、競争を余計ひどくしているように思う。

 確かに、「点数競争」(社説)はよくない。だが、学校はそもそも何をする所か忘れているのではないか。学校は、勉強する所だ。国語や理科や社会の勉強をする所だ。漢字が書けなければ会社には勤められない。理科や数学ができなければ、エンジニアにはなれない。社会ができなければ、選挙の時正しい投票ができない。

 学校では、道徳や人づきあいなども学ぶけれども、こういう机の上での勉強が中心だ。だから、「大学進学率を高めようという一部地域での学力向上運動」(社説)がどうしていけないのか、全く分からない。勉強をすることのどこがいけないのか。こういう基本を踏まえていない報道が、日本人をどれほど呆れさせているか。

 受験勉強は、一人一人が選択して行っていることだ。マスコミ報道はまるで、受験勉強が悪いことで、麻薬を打っていることのように言う。勉強し過ぎて心身に異常を来してはいけないが、勉強をすること自体はいいことだ。

 社説も言うように、「大切なのは、『どこに入れるか』ではなく、『どこで何を学びたいか』」である。

 勉強したくもないし、やりたいことがある訳でもないのに、大学に行く人が多いのが私には信じられない。大学は本来学ぶ所であるということを忘れている人が余りに多い。

 本当の「敵」はこういうことなのに、偏差値を「敵」にしてしまっている。これでは日本の教育はよくならない。

・「激動病」
 この社説は「変革期にどう進路を選ぶか」と題し、本文には「高校自体が激しく変化しつつある」「今の受験生は、教育の大変革期の始まりに直面している」とあり、変化が強調されている。

 先ず、「大変革期の始まりに直面している」ということは、これから大きく変化するということだ。これは一種の予測である。予測は余り当たらないし、客観的報道とは言い難い。

 また、国際化や福祉などの新コースの設置程度で、激しく変化していると言えるだろうか。明治5年の学制公布や GHQ の行った学制改革に較べたら、この程度の変化は微動ではないだろうか。

 日本はいつも激動の時代だ。10年くらい前からならはっきり憶えているが、日本は毎年、激動の時代だ。人が生きているんだから、変化はあるだろう。江戸時代に較べたら、ここ数十年は大きく変わったのだろう。

 だが、天安門事件があったから激動の時代、冷戦が終わったから転換期、湾岸戦争があったから激動の時代、業者テストが公立中学から締め出されたから変革期というのでは、冗談なんだか酔っぱらいのたわごとなんだか分からない。日本では常に変革期、過渡期だ。歴史家までそんなことを言っている。(93年11月20日付夕刊文化欄)私は絶望を通り越して、生きているのがいやになる。

 上に書いたことは、歴史に残る出来事ではある。だが、それをもって激動の時代とは言えない。そういう考え方をしていると、毎年激動の時代ということになる。

 94年1月3日折り込みのPR版でも、変化がひどく強調されている。見出しには「変革の94」とある。これもいい加減な予測である。天下の朝日新聞がこれでは、日本人は現代がどういう時代なのかさっぱり分からない。

・個性重視はいいのか
 この社説では個性と多様性が強調されているが、現在の日本の教育に求められているのは、個性や多様性ではなく質の向上ではないだろうか。

 いくらカリキュラムが多様になっても、授業の質が低くては何にもならない。外国語の選択の幅が広がり、中学でドイツ語やフランス語を教えても、相変わらず教え方が下手では意味がない。

 また、カリキュラムが多様になると、いろいろ問題が起きるだろう。英語よりドイツ語で高校を受けた方が有利になるとか、フランス語で受験できる高校は少ないとか。

 日本史のカリキュラムに関して、高校では近現代だけ教えてはどうかという意見を聞いたことがあるが、実際にそうすると学校で教えてくれないことは塾や予備校に通って習うことになる。塾通いが激化する。教え方は多様でもいいが、教える内容は大体同じにしておかないと、新たな問題を引き起こす。

 国公立大学の入試は、中曽根元首相が数回受験できるようにしてから、多様にはなったが複雑にもなった。ともかく多様にすればいいという訳ではない。

 社説に「個性が重んじられる時代」とあるが、個性なんか重んじられているだろうか。テレビを観ているとよく、「どこにでもいる中学生」といった言い方を聞くけれども、私はどこにでもいるような平凡な人には会ったことがない。誰もが強い個性を持っている。朝日新聞にもそういう表現を見かける。

 例えば、93年12月の東京版に「悪女はささやく」という連載があったが、12月9日付の分に、ボーイフレンドから指輪を7つも貰い、アルバイトで月に14、5万稼ぐ女子大生が出てくる。この女子大生のことを「ごく平均的な大学生」と書いているが、こんな女の子の一体どこが平均的なのか。父親がサラリーマンなので平均的と言うのかもしれないが、それだけで平均的と言ったら日本は平均的な人ばかりになってしまう。

 個性が大事と言うマスコミ自身が、個性を尊重しないで、日本人はみんな同じであるかのように言う。そういうこともあって、日本人は皆自分と同じだと思っている。だから、成績や学歴をすごく気にするのだろう。人は皆違うんだと思っていれば、そういうことは余り気にならないのではないだろうか。

・デタラメ
 11月15日付の「生徒参加権認める「学校論」(取材ファイル)」には「幸福論議の中で、皆で汗を流しながら幸福とは何かを探していく過程こそが『授業』なのだと夜間中学教師に気づかせる。いまの学校に多い『授業のマニュアル化』や『教育技術の法則化』に熟達しているプロ教師に対する痛烈な批判になっている。」とあるが、この記者はなんてふざけているんだろう。中学で狭い意味での勉強をしないで、「幸福とは何かを探してい」たら、朝日新聞には入社できないだろう。

 どうしてこんなに馬鹿げたことが言えるんだろうか。授業をちゃんとしない問題教師を責めないで、マニュアルを使ったり、教え方をいろいろ研究している教師を非難するのは異常ではないか。マニュアルを使っているというだけで非難することこそ、マニュアル的である。

 11月16日付の「中3の会場テスト結果、偏差値に変換 生徒進路指導に担任教師が使う」という記事には、「昨年までのような偏差値による輪切り指導ができる」と書いてあるが、偏差値がなくなっても、成績によって受験校が決まる。

 また、高校は勉強をする所だから、成績で合否が決まって当然である。マスコミ人や一部の人を除いて、誰もがそう思っている。だから、受験競争は続いている。こういう現実から遊離した報道はいい加減やめた方がいい。一般の日本人はこういう議論にどれほど呆れているか分からない。新聞が読まれなくなってしまったことの理由のひとつだ。

 またこの記事には「職員室の机の上には解説書が積み上げられているという」ともあるが、いかにも悪いことをしているといった書き方である。自分の目で確かめていないことをわざわざ書く必要があるだろうか。

 この記事の下には、『週刊朝日』の広告があって、そこには「国公立大人気は本物 133大学の最新偏差値」とある。中学生は偏差値を使ってはいけないのに、週刊誌は使ってもいいのか。これでは朝日新聞は絶対信用されない。『週刊朝日』はまた東大などの合格者の名簿を載せるのだろう。偏差値反対、受験反対というのは口だけではないか。

 朝日小学生新聞の折り込みチラシには、「受験に役立つ」などと書いてある。こんなことでは、マスコミが信用を落とすだけで、教育は改善されない。

 私は偏差値は一応容認するが、成績や学歴で人の価値が決まってしまうのはおかしいと思う。受験は肯定するが、週刊誌が合格者の氏名を掲載するのはいけないと思う。一番おかしいと思うのは、勉強したくもないのに大学に行く人が多いことだ。本当に勉強したければ、大学のレベルなどどうでもいいだろう。

(94年1月31日付朝刊社会面に「高校入試の“脱偏差値”」と見出しにあるが、脱偏差値ではなくて脱業者テストである。こういうほんのちょっとしたことが積み重なると、大きな間違いを生んでしまう。) 

・表記について
 朝日新聞は、動物や植物の名前を片仮名で書くことが多い。例えば、93年11月11日付朝刊の主張解説面に捕鯨の記事が載っているが、「捕鯨」であるのに「クジラ」となっている。音読みする時は「鯨」で、訓読みの時は「クジラ」というのは奇妙きてれつだ。

 最近はこういう表記にも慣れてしまったが、初めて「捕鯨」と「クジラ」を見た時のなんとも言えない奇妙な感情を今でも憶えている。

 この記事では他に、「子ウシ」「子ヒツジ」というのも出てくる。このふたつは一瞬何と書いてあるか分からなくて、紙面を睨みつけてしまった。

 もし「クジラ」や「子ウシ」のみが正しいならば、「鯨」や「子牛」は間違いということになり、日本の学校では嘘を教えていることになる。

 こういうのは、本当に新聞を読む気をなくさせる。「子ウシ」がおかしいのは小学生にだって分かる。

 今まで朝日新聞に5通手紙を書いて、いろいろなことを主張してきたけれども、実はこのことが一番、新聞離れを引き起こしていると思う。「子ウシ」がおかしいのは、誰にでも一目瞭然だ。

 動物学や植物学では、片仮名で書くのが普通だから朝日以外の新聞もそうしているのだろうけれど、新聞は動物学の論文ではない。中学生も文学者も読むものだ。

 それなのに、専門家が片仮名を使っているから、新聞も使うというのは余りに短絡的ではないか。

 同日11月11日付の29ページのふすま絵の記事には「総ヒノキ造り」とでてくる。ひのきは外来語ではない。和語だ。だから片仮名で書くのはおかしい。そもそも、和語を片仮名で書いて漢字で挟む人の神経が信じられない。

 93年11月19日付夕刊に「白鳥の季節、今年も 冷害…逆に食べ物は豊富 新潟県水原町の瓢湖」という記事では、「白鳥」と「ハクチョウ」が出てきて、奇妙である。さすがに「ハクチョウの季節」とは書けないので「白鳥の季節」としながら、一方で「ハクチョウが先月初めから次々と飛来し」と書いてある。

 こういう矛盾が起きるのは、「ハクチョウ」という表記に無理があるからである。

 「籾」も「鴨」も、和語なのに片仮名で書いてある。また、漢字で書けばどれも「餌」なのに、「え付け時間」「エサ取り」「給餌場」となっている。常用漢字以外には振り仮名をつけなければいけないから、漢字で書くと面倒だったり煩雑になったりするが、これは余りにひどい。

 この問題に関して注目すべき記事が94年1月14日付朝刊の主張解説面に載った。「カタカナはんらんの現代 動植物名が加速」という記事だ。

 朝日の記者の手になる批判が紙面に載るのは極めて珍しい。それだけでも評価に値する。だが、社内に対する配慮のようなものが感じられる。漢字を使わないで片仮名を多用するのは、「敗戦直後の漢字制限に源がある」と政府のせいにしてしまっている。

 「カタカナ書きは投書欄などでも見られるが、新聞の取り決めは、漢字では表せない場合の例外規定である。だが、現状では猫、蛇、蛍などの動物や、桜、杉、菊などの植物はしばしばカタカナだ。新聞社の一員として、表記のばらつきをはばかるばかりだが、教科書の影響が大きい」ともある。

 「桜」や「杉」など常用漢字で書ける語まで片仮名で書くことにしているのは、朝日新聞である。そのことが、社内に対する配慮のためか、はっきりと出ていない。

 また、この記事の中にも漢字や平仮名で書くべき語が、片仮名で書いてある。先ず、「カタカナ」でなく「片仮名」のはずだ。また「洋ラン」でなく「洋蘭」か「洋らん」とすべきである。

 例として箇条書きになっているものの中にも、「花咲ガニ、紅ザケ、玉ネギ、ニシキ蛇」など、和語なのに片仮名で書いてあるものがある。

 「米」を「コメ」と書くことも指摘しているが、これは「米」と書くと米国との区別がつきにくいからだろう。そういう説明を紙面で見たことがある。この表記は合理的である。

 この記事が掲載された後も、相変わらず常用漢字で書ける語も片仮名で書いている。「サクラ」より「桜」の方が、字数も少なくて済むではないか。これではこの記事は、読者の不満をそらすためのガス抜きでしかない。日曜の「私の紙面批評」も、そういうふうに使われているような気がする。

・同音異義語
 93年7月3日付の朝刊の「赤えんぴつ」は同音異義語を扱っているが、同音異義語の書き分けが簡単にできると考えているようで、びっくりした。

 「責任は追及し、利潤は追求する」とあるが、『三省堂 新明解国語辞典第四版』には、「追求」の第三語義として「追及」とあり、「責任の追求」という用例が挙がっている。

 私は「意思」という表記を朝日新聞で初めて見た。高校までこんな表記は見たことがなかった。「考え、思い」を意味する時は「意思」で、「成し遂げようとする心」という意味の時は「意志」と書き分けようとするのは無理だ。

 『新明解』では「住民の意志を尊重する」「意志の疎通を図る」「意志統一を図る」と、朝日や他の新聞が「意思」とするところで「意志」を使っている。そして、「意志は意思とも書く」と注記してある。法律の世界では「意思」が普通のようであるが、他の分野では「意志」が普通である。

 「体制」と「態勢」の区別も簡単にはできないだろう。『新明解』には、「体制固め」と「態勢を固める」と出ている。こういう区別にうるさい読者がいるのだろうが、漢字は元々かなりいい加減だから、書き分けしようとしてもし切れない。 

 漢字には、意味も発音も同じなのに字形が少し違う異体字というのがある。大阪の阪は常用漢字に入っていないが、坂の異体字である。峰と峯、杯と盃、涙と泪もそれぞれ正字と異体字である。

 だから、93年6月12日の「赤えんぴつ」は、よく調べてあるが、本質をつかみ損ねている。厩という字には、異体字がいくつかあるだけでなく、部分的に新字体に書き換えられているので、たくさんの字体があるのである。本来この字は中が皀なのだが、既という字にならって一部分を置き換えた字体も、使われているのである。

 熟語の書き方も何通りもあることがある。「意識がもうろうとする」と言う時、曚朧、朦朧、矇朧と三通りあるようだ。

  ファーストフード店ではマニュアル通りの応対しかできないという批判をよく目にするが、朝日新聞は間違いのあるマニュアルに縛られているように思われる。

1994年3月3日                 跡見昌治

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朝日新聞に出した手紙(5) [朝日新聞に出した手紙]

【1994年01月13日】-山本夏彦氏は以前「vs朝日新聞」という連載の中で、「新聞は10年に1度見ればいい。甲子園の選手宣誓を移した写真は、毎年同じアングルだからだ」と言っていた。10年に1度というのは大袈裟だけれど、年中行事になっている報道がある。

・靖国神社
 毎年8月15日、国会議員の靖国神社参拝がニュースになる。自民党の議員は靖国神社に参拝し、また侵略戦争を起こそうとしているかのように報じられるが、本当にそうだろうか。

 神社に参拝しただけで戦争が起こせるなら、誰も苦労しない。議員が参拝するのは、日本遺族会という自民党の支持団体が、是非参拝してほしいと言うからである。新聞社が読者の要望を無視できないように、国会議員は支持者の依頼を無下に断ることができない。マスコミの批判を浴びてでも参拝するのである。

 こういう事情をマスコミが知らないのかというと、知っている。小さな記事だったが、私は朝日新聞で何度も、日本遺族会が自民党に参拝を要望したという記事を読んだ。それなのに、朝日新聞を初めとしたマスコミは、靖国参拝を復古主義だと非難する。一般の日本人は「自民党はまた戦争を起こそうとしている」と思い、かつて日本に侵略されたアジアの国々は、「日本は侵略を反省していない」と反発する。

 私が高校で政経を習った先生は、教科書の執筆にも参加していたが、靖国神社の参拝を復古主義だと批判していた。高校の教師までマスコミに騙されてしまっている。

 朝日新聞は日本を良くしたいのか、政治家をいじめたいだけなのか。こういう報道は、日本人の政治不信を悪化させるだけでなく、外交関係まで悪くしてしまう。日本人のことはともかく、外国人の日本観を悪くしたことは断じて許せない。

 政治家は、こういうことを記者に言っているだろう。だが記者は耳を貸そうとしない。読者の苦情には敏感でも、取材対象者からの異議は無視する。

 取材先に信用されないようではダメだ。政治家に「朝日新聞はよくやっている。間違いはないし、時にはこちらが気づかないことまで指摘してくれる」と思われなくてはいけない。そこまで信用されても、政治家がマスコミの主張をどれほど聞き入れるか分からない。今のようでは政治家が行動を正さなくて当然だ。

・政治報道
 以前、自民党は金丸、竹下、小沢の「金竹小」トリオで運営されていると言われていた。だが、こんなことは考えられない。年齢も当選回数も違う小沢氏が、金丸氏や竹下派のオーナー竹下氏と対等なんてことがあるだろうか。小沢氏自身、そんなことはあり得ないと否定していた。政治家なんて嘘ばかりついているが、そう話していた小沢氏の困惑した表情からすると、これは嘘ではないだろう。

 きっと誰か議員の秘書かなんかが、面白がってそんなことを言ったのだろう。それをマスコミが引用し合って広まったのだろう。こういうマスコミの作り出す擬似現実が日本には本当に多い。

 だから、小沢一郎氏が誤報を理由に、産経新聞と日本経済新聞を、会見から締めだしたことはいいことだと思う。そうでもしない限り、マスコミこそ反省しない。だが、その後小沢氏は一度も会見をしていないらしい。これは言語道断だ。

・野村事件
 93年10月、朝日新聞で野村秋介氏が自殺した。新聞本紙と週刊朝日に出版局長がその時の様子を書いていたが、その後、野村氏の主張を朝日新聞はどう受けとめ、どう報道を変えていくのか、全く出ていないようである。

 変な人に言いがかりをつけられ、ひどい目に遭ったが、早く忘れようというのだろうか。これからも今まで通りの報道を続けていくつもりなのだろうか。例えば、野村氏も靖国神社参拝の報道に抗議していたようである。「口舌の徒は、相手にされないが、命を賭ける者は聞いてもらえる。」と言っていた氏の死が無駄にならないようにしてもらいたい。

・教科書検定
 93年10月20日、教科書検定に関する判決があったが、私はいつも教科書検定を巡る議論には大きな疑問を感じてきた。

 というのは、文部省が社会科の教科書検定をするのは、愛国心を養うためのようだが、実際には逆効果になっているからだ。

 先ず、愛国心について一言。日本では愛国心がなぜか軍国主義と同一視されているが、本来は別物である。教科書検定や政治の腐敗を嘆いている人も、日本を大切に思っているのであり、その気持ちを一言で表現すれば愛国心となるだろう。

 そもそも、教科書の記述を「美化」することによって、愛国心を養えると考えることがおかしい。20日のニュースステーションのインタヴューに学生が答えていたように、教科書を暗記する者はいないし、じっくり読む者も少ない。そもそも、文部省は教科書をなぞるように教えてはいけないと言っているはずである。たとえ、検定された教科書を暗記したとしても、少し表現が和らげてあるからといって、生徒の愛国心が高まるとは思えない。それなのに、文部省は検定を続ける。

 文部省は検定をすると、検定内容が詳しく報道されるということを計算に入れていない。教科書検定の報道に接した者は誰もが、「文部省はなんて姑息なことをするんだろう」と思って日本が嫌いになる。日本が好きな人を増やそうとして、日本が嫌いな人を増やしているのだから、救いようがない。

 また、報道される度に日本が東南アジアでどんなことをしたかテレビで大きく取り上げられるのだから、検定なんかやめた方が愛国心を培うことになる。

 日の丸や君が代に関しても同様である。そういうものを押しつけると、愛国心が養うどころか、愛国心をそぐことになる。

 目的を達するために、何をしたらいいのか分かっていないような連中が文部省の役人なんだから、暗澹たる気持ちだ。

・言葉遣い
 93年10月、東京版に「いま東京語は」という連載があった。気づいたことを記してみる。

 第一に、自分達の言葉遣いに全く問題がないかのように、若者の言葉遣いを批判している。こういうのは若者の反発を招くだけで、改善に結びつかない。

 最近政治家がよく「初めに~ありきはおかしいのではないか」というような言い方をする。93年9月14日の朝刊1面の「政治改革に問う」という連載の見出しには「まず再編ありき、なのですか」とあり、本文には「『はじめに、再編ありき』の印象さえ受ける」とある。

 この言い方はおかしい。聖書のヨハネによる福音書の冒頭、「初めに言葉あり」をもじったのだろうが、「き」というのは過去を表す助動詞である。「まず再編があったのですか」という意味になってしまう。ここでは「~を前提とする」というつもりなのだろう。国会議員も無教養だが、文語文法も分からない新聞記者というのも情けない。政治家がこういう言い方をした場合には、「~を前提とする」のように言い替えて報道しないと、日本人は日本語までできなくなってしまう。

 ともかく、これでは高校の国語の先生には馬鹿にされるし、古文の得意な高校生にも呆れられるし、部数が減って当然である。

 第二に、若者を一人前に見ている。若者の言葉遣いが変なのは、まだ日本語が下手なのである。私自身、今でも大してうまくないが、若い頃はもっと日本語が下手だった。新聞記者の方なら、分かりやすくて、しっかりした言葉遣いの日本語を書くのが難しいことは、知っているはずだ。日本の国語教育が如何に駄目かもご存じだろう。

 それなのに、若者を一人前に見て、「ここがおかしい。あそこがおかしい。」と言っている。日本人は皆、誰もが日本語はちゃんとできると思っている。だから若者は余計、言葉遣いに注意を払わない。「日本人だからといって、日本語がちゃんとできるとは限らないし、特に若者は下手でも仕方がないが、少しずつよくしていかなくてはいけない」という姿勢で記事を書いて戴きたい。

 こういう思い込みは、マスコミだけの責任ではない。国語の教師は「日本人なんだから、これくらい分かるだろう」と、国語の教師としては口が裂けても言ってはいけないことを、よく言っているようである。日本人も勉強しないと、ちゃんと日本語ができるようにならないから、学校には国語の授業があるのに。

 第三に、一人の見方を真実のように書いている。中央大学の講師が、「今の学生は当てられても返事をしない。数年前まではそんなことはなかったのに」と言っていたが、10年前大学生だった私は、答えられないと黙りこくっている学生をたくさん見た。こういうことは、別にここ数年の傾向ではないだろう。この人の思い違いである。

 第四に、若者の言葉遣いばかりが槍玉にあがっていたが、中高年の言葉遣いがしっかりしていて、若者の言葉遣いだけが駄目ということはあり得ない。若者ほどでなくても、中高年の言葉も乱れている。

 「どうも」が「こんにちは」という意味でも使われるし、「こんばんは」にも「さようなら」にもなる。こういう中高年の傾向が、若者の間では強く出ているだけである。そうは言っても、若者の言葉遣いは変で聞いていられないけれども。

 若者の言葉遣いがいい加減なのは、世の中があまりにいい加減だからではないだろうか。親は子供のことが分かっていないし、教師は言動不一致だし、政治家は自分の当選のことばかり考えているし、マスコミの報道レベルは低いし、世の中、いい加減で適当でめちゃくちゃなことばかりである。だから、言葉遣いなんかいい加減でいいと思う若者が多くても、全く不思議はない。

 また、複雑なことや難解なことをいい加減と捉らえる人もいる。こういう人にとっては、単純明快なこと以外、何でもいい加減となってしまう。いい加減な言葉が氾濫するわけである。

 10月27日・28日付の記事は、それこそ曖昧で分かりにくかった。

 27日には、事実文と意見文を区別しなくてはいけないと書いてあったが、そんなに簡単に区別できるだろうか。ある行動を、ある人は「走っている」と言い、別の人は「速く歩いている」と言うこともあるだろう。一体どちらが事実で、どちらが意見なのか。誰かが食事をしている様子を、ある人は「がつがつ食べている」と言い、他の人は「急いで食べている」と言うかも知れない。

 言葉は常に判断と結びついているのではないだろうか。事実と意見を簡単に峻別できるとは思わない。

 28日では、「欧米では白黒はっきりさせるので、曖昧な言い方は相手にされない」といったことが書いてあったが、英語にもYes and no.という言い方がある。ロイヤル英和辞典(旺文社)には、「どちらとも言えない」と書いてある。(yesの熟語欄)部分的には同意するが、部分的には反対するということだ。

 アメリカの政治家も、回りくどい言い方をすることがある。また、フランス語のonという代名詞は、「私(たち)は」という意味でも「あなた(たち)は」という意味でも「彼(ら)は」という意味でも「彼女(たち)は」という意味でも、使われる。結局どの主格の人称代名詞の代わりにもなる。極めて曖昧である。日本語の「手前」も自分と相手を指すけれども、三人称は指さない。

 最近、おかしなところに「関係」や「状態」という若者が多い。例えば「弁護士をしている」と言うべきところを、「弁護士関係の仕事をしている」と言ったり、「すごく疲れた」という意味で「すごい疲れちゃった状態」などと言っている。「すごく」と言わなくてはいけないところで、「すごい」と言う者も多い。こういうことも是非指摘してほしかった。

・経済報道
 93年11月12日朝刊で小野田セメントと秩父セメントの合併が報じられた。

 朝日新聞は、経済面に「セメント需要低迷に危機感 生き残りかけ決断 小野田-秩父の合併」という記事を掲載している。この「生き残り」という言葉が気になる。朝日は企業が合併する時はいつも「生き残りをかけて」と書いていないだろうか。

 同日の毎日新聞と読売新聞を見てみると、見出しには生き残りという言葉はないし、本文にもない。その代わり毎日と読売では、「過当競争」という言葉が、見出しにも本文にも出ている。朝日でも本文には過当競争という言葉が使われているのに、見出しには出ていない。

 「生き残りをかけて」ということは、合併しないと倒産するということだ。セメント会社は22社あるということなので、国内販売量が業界第2位の小野田セメントと業界6位の秩父セメントが合併しないと倒産するとしたら、例えば業界10位以下の企業は近いうちに倒産するということだろうか。

 また、朝日だけでなく読売も毎日も、業界再編を強調しすぎる。この合併発表以来93年中はセメント会社の合併はないので、ここまで業界再編を強調するのは言い過ぎではないだろうか。

 また、朝日に「シェアなど慎重に審査 小野田セメントと秩父セメント合併で公取委」という記事があるが、なぜ公正取引委員会が審査をするのか、この記事だけでは分からない。

 読売の「小野田セメントと秩父セメントの合併計画 公取委、重点審査へ」という記事には、「両社の合併が市場競争を阻害するかどうかを審査する方針を明らかにした」とあり、なぜ公正取引委員会が審査するのかはっきり分かる。

 毎日では、「公取委が重点審査へ--小野田・秩父セメント合併」という記事に『合併が市場の競争を制限することになるかどうか、地区の販売シェアなどを含め審査』とあり、同じく分かりやすい。

 また、読売の「『ことば』合併比率」という記事を読んで初めて、株の割り当てがどういうことか分かった。

・まとめ
 日本の報道は本当にワンパターンだ。実際にはそうでないのに、そういう風に今まで言われてきたものだから、同じことを繰り返していることが多い。伝統をただなぞっているだけということもある。

 特に、日本文化に関する議論はひどいものが多い。日本語は曖昧だという先入観でデータを集めてくる。言葉なんか何語でも相当いい加減だし、言葉が乱れているのは今の日本に限ったことではない。過去の日本においてもそうだったし、現在の世界においても、言葉は乱れている。言葉遣いに気を使っている人は、いつの時代でも、余りいないのかも知れない。

 今の若者が何でも「一個」と言ってしまうのは、いろいろな物や情報が溢れていて、関心をひく物が多く、言葉遣いにまで気が回らないためかも知れない。昔の人なら意識しなくてもちゃんと言えたことが、他のことで忙しくて、頭がそこまで回らないのかも知れない。

 それなのに、こういう事情を考えることなく一方的にいつも同じ議論を若者に押しつける。靖国神社の参拝に関しても、事情を考えようともしない。政治家を批判していればいいと思っている。

 日本では誤報が伝統になっている。恐ろしいことだ。

 だから、テレビ朝日元報道局長椿氏の発言をきっかけにして、報道の中立性について随分議論があったけれど、みんなふざけているんじゃないかと思う。不公正でいい加減な報道は日本中に溢れているのに、報道が公正かどうかと議論しているんだから、つける薬がない。

1994年1月13日
                                             跡見 昌治  

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朝日新聞に出した手紙(4) [朝日新聞に出した手紙]

【1993年10月14日】-日本のマスコミは、一ヶ月くらい一つのテーマで盛り上がることがある。今年の5月はカンボジアのことで盛り上がった。

 カンボジアに日本の自衛隊や文民警察官が派遣され、文民警察官一人とボランティア一人が死亡した。この二人の死亡に関して、日本ではおかしな議論が巻き起こった。日本国憲法は、日本の交戦を禁止しているので、自衛隊員及び文民警察官は死んではならない、自衛隊は即刻引き揚げるべきだという議論である。

 自衛隊の扱いは、とても難しい。なにせ、存在自体が違憲なのだから。違憲の制度が何十年も続いている国は殆どないだろう。特に先進国では全くないと思う。独裁政権でも憲法を改正して、体裁を整えるだろう。だが、日本には憲法違反の自衛隊がある。

 朝日の社説は、はっきりとは撤収を訴えてはいないが、「要員の安全を極力図ることは政府の責任である。」「業務を中断し、たとえばプノンペンへの一時集結などを、臨機に進めるべきだ。」(5月5日社説)などと言って、暗に撤収を呼びかけている。

 だが、大事なことを忘れている。当のカンボジア人のことだ。大切なのは「派遣される人たちの立場にたって、柔軟に対処する姿勢である。」(同日)とあり、カンボジア人の安全は視野にない。「日本だけが安全なところを求めるというのではなく、各国の要員の身の安全を最大限守る」(5月7日社説)ともあり、やはりカンボジア人のことは忘れている。

 日本人や他の国のPKO要員が死ななければ、カンボジア人は死んでもいいと言っているようなものだ。PKOの基本的な考え方は、内戦が続いて何万人もの人が死ぬよりも、数十人のPKO要員が死ぬ方がましだということだろう。もしこの時点でUNTACがカンボジアから撤退したら、カンボジアはまた内戦に突入していたかも知れない。

 もっと言うと、朝日新聞に限らず日本のマスコミは、日本人のことだけ心配していて、他の国のPKO要員はまるで死んでもいいかのようだ。「ポト派の武力にひるんでいては、それこそポト派の思うつぼだというのは、その通りかもしれない。しかし、選挙監視に日本から加わる人たちは、PKO協力法に基づく国の意思として派遣されるのだ。この人たちの安全について、政府は責任を負っていることを確認しておかねばならない。」(5月7日社説)

 だがワシントンにいる吉田慎一特派員は、5月16日付の紙面で次のように伝えている。

 ニューヨーク・タイムズは「もっと多くの死者を出しているフィリピンなどより、自国の軍隊の安全を重視しようとしているとの批判が浴びせられている」と指摘する一方、戦後の平和憲法のもとで培われた「国民風土」が背景にある、と報じた。

  日本は何か特別という意識がある。唯一の被爆国で、平和憲法を持つ平和国家だ、絶対に日本は戦争をしてはいけないと思っている人が多い。

・戦争はなくせない
 私は、戦争はいけないと思う。軍隊もない方がいい。だけれども、日本に軍隊がなくていいとは思わない。「憲法9条の地球化」(5月3日社説)ができればいいけれども、そんなことは人間の本性からいって、無理だろう。

 他の国に「日本のように憲法に戦争禁止の条項を入れて、軍隊を廃止しましょう」なんて言ったら、きっと「そういう日本が先ず自衛隊をなくしたらどうですか」と言われるだけだろう。

 日本は唯一の被爆国ではない。アメリカや旧ソ連には核実験によって被爆した人がたくさんいる。憲法は9条だけではないので、平和憲法や「不戦憲法」(3日社説)という言い方はあまりに不正確だ。

 3日の社説に次のような一節がある。

 歴史を掘り起こして改めて考えてみる。例えば、江戸時代の鎖国は「日本の進歩を遅らせた」と否定的に見られがちだが、半面、二、三千万人の人口を抱えて対外戦争もせず、三百年近くも平和を維持した社会は、世界史的には珍しい。
 その江戸時代の「和」の精神が、戦争の放棄を定めた憲法九条に対する国民の圧倒的支持につながっているのではないか、との説を上智大の藤村道生教授が唱えている。(『司法書士』九二年十二月号「日本歴史の伝統のなかの憲法第九条」)

 こういう意見には閉口してしまう。では江戸時代と現在に挟まれた15年戦争はどういうことになるんだろうか。結論が先にあって、後から論拠を探してきた最低の論じ方だ。

 ともかく日本は平和的な国だと言いたいのだろう。だが、こういう議論に納得してしてしまう人は、あまり頭がいいとは思わない。

 こういう議論を聞いていると、私はやりきれない気持ちになる。理想としてはそうだけれども、実現できるかどうか殆ど考えていない。「平和、平和」と言いながら、日本人のことしか考えていないこともある。

・湾岸戦争
 こういった視野の狭い議論は今回が初めてではない。湾岸戦争の時にも見られた。イラク軍と他国籍軍との戦闘が始まると、「戦争はよくない、アメリカは好戦的だ」という妄説が日本を覆った。

 アメリカ一国がイラクと戦ったのではなく、国連安保理の議決に則って、イギリス・フランスとも相談した上でイラクに対する攻撃を始めたのだ。戦闘には参加しなかったが、ペルシャ湾に軍を派遣した国は10前後あった。それなのに「アメリカは好戦的だ」というのだから本当に話にならない。

 朝日新聞の記事には事実無根はなかったが、世論をそういう方向に誘導したことは確かだ。朝日の見出しを毎日見ていると、私のような者も何となくアメリカが悪いという気になった。誤りは全くないが、読者にアメリカが悪いと思わせた。朝日新聞は情報操作の天才である。

 もともと悪いのはイラクである。隣国クウェートに攻め込んで「ここはわが国の領土である」と言ったのは、イラクである。そのイラクよりアメリカの方が悪いというのは、暴論である。アメリカの国務長官ベーカーがウィーンで「1月15日までにクウェートから撤退すれば、何もなかったことにするから」と言っても拒否したのはイラクである。

 戦争をしないで経済制裁を続けるべきだという意見もあった。今でもイラクに対して経済制裁を科しているが、フセインは健在である。経済制裁が効果をあげたことは歴史上一度もないというから、そういう意見はかなり無責任である。

 日本ではいつものことながら、一番大事なことが忘れられていた。クウェート人のことだ。クウェート人はイラク軍に殺されつつあった。経済制裁が効果をあげるまでに、クウェート人が皆死んでしまったらどうするつもりだったのか。戦争という形でなければ、殺人を容認するのか。

 人が死んだり、苦しんだりするから戦争はいけないのだ。戦争には反対するが、虐殺を黙認するというのはどうかしている。戦争には絶対反対だと言いながら殺戮を容認する人は、戦争という言葉の「奴隷」になっている。日本にはそういう「奴隷」が多い。

・生徒が不勉強
 8月31日の社説と9月3日の天声人語は、英語教育を取り上げているが、同じく一番大事な点を忘れている。

 それは、学習者の努力だ。どんなに教師が優秀でも、どんなに教材がよくできていても、生徒一人一人が一生懸命勉強しなければ、決して英語はできるようにならない。この一番大事なことが、日本の議論ではなぜかすっぽり抜け落ちている。

 そもそも外国語は何語であっても、とても難しいものだ。先ず発音が違う。文字が違うこともある。文法が違う。それなのに、日本人は外国語はそんなに難しくないと思っているようだ。「アメリカに行けば子供だって英語を話している」などと英語を馬鹿にする人もいる。主要な現代語の中で一番難しいと言われているロシア語だって、ロシアに生まれ育てば誰もが一応話せるようになるのに。

 日本語と英語は文字も違うし、文法構造が全く違うから、日本人は英語ができないのではないかと言う人がいるが、同じ漢字を使っている中国語もかなり難しい。

 中国では、簡体字という日本と違う省略体を使っているので、見慣れない字が多い。発音も難しい。音素(最低限区別すべき母音と子音)の数も多いし、漢字の読み方がすごく覚えにくい。

 漢字を全く知らない欧米人に比べたら、中国語は日本人に簡単だろうが、真剣に取り組まなければ何年やってもちゃんとできるようにはならないだろう。

・文法をしっかり教えていない
 生徒がしっかり勉強していないだけでなく、教師もちゃんと教えていない。

 先ず、教師は「日本語が下手」(天声人語)である。旺文社の大学受験講座を聞いていると、国語と数学の教師は理路整然と話しているのに、英語の教師は話しが余りうまくない。最近はかなりよくなったが、以前はひどくて、とても分かりにくかった。

 また、言葉遣いが不正確で、説明の仕方が下手なだけでなく、教える内容自体に、かなり問題があると思う。特に英文法の教え方がひどい。

 文法偏重という批判もあるが、文法偏重だなんてとんでもない。現実は逆で、文法をまともに教えていない。だから英語ができない、英会話もできない。私は大学では英文科にいたけれども、英文法が一通り分かっていた友人は余りいなかったように思う。

 最近、ある翻訳の勉強会で中学の英語の教師をしていた人二人と会ったが、二人とも英文法の基礎が分かっていないようであった。私が文法用語を口にすると、他の出席者も含めて皆「文法は分からない」といった顔をしていた。文法は分からないが、勘で何とか訳しているのだ。だから、時々とんでもない訳をする。元英語教師の一人は勘もさえていなくて、荒唐無稽な訳を随分書いていた。

 公立中学では、文法用語を使って英語を教えることは殆どない。だから、「英文法に偏った英語教育」(天声人語)というのは事実に反する。

 中学では文法をしっかり教えない。だが高校では、中学程度の文法は分かっているものとして授業が進められる。だから日本人は英文法も分からないし、英会話もできないのだ。

 文法は難しいものだ。文法用語は分かりにくい。だからしっかり理解していないと、チンプンカンプンになる。それなのに、日本の中学校でも高校でも英文法を系統的に教えていない。「文法ばっかりやっていて、簡単な会話もできない」という不満は、こういうことを背景にして出て来た的外れな批判である。

 「文法なんかいらない」という意見もあるが、文法が分からない人の負け惜しみだろう。文法をやらずして、どうやって外国語をものにしようというのか。

 文法は譬えて言えば、スポーツのルールのようなものだ。ルールが分からなければ、競技に参加できるわけはないし、観戦していてもつまらない。ルールは絶対に知らなくてはいけない。(文法規則は英語でgrammatical ruleと言う。)

 文法も同じである。外国語ができるようになるにはどうしても必要なものだ。それなのに文法なんか必要ないと言う人が多い。文法を無視して英語ができるようになろうとする人もいる。愚かだ。

 その重要な文法を日本ではしっかり教えていないのだ。

 例えば、動詞がよく分かっていない生徒は、不定詞を教わったらかなり混乱するだろう。だいたい不定詞という用語が分かりにくい。そういう品詞があるのかと思ってしまう。更に、不定詞の形容詞的用法や副詞的用法が出てきたら、チンプンカンプンかも知れない。

 先ず、品詞の分類をしっかり教えなければならない。品詞は文法の基礎だからだ。だが、日本の品詞の教え方は本当に下手だ。最初にどういう品詞があるか、しっかり教えるべきだ。英米の学校文法にならって八品詞とすれば、英文法には名詞、代名詞、動詞、形容詞、副詞、前置詞、接続詞、間投詞の八つの品詞があると教える。先ず、これを丸暗記しなくてはならない。

 次に、各品詞を説明するわけだが、この説明の仕方がほんとうに下手である。

 名詞は物の名前を表すとか、動詞は動作を表すとか説明することが多いが、これでは余りに適用範囲が狭い。「机」や「本」は物の名前だから名詞だということはすぐ分かるが、では「美」とか「真理」は物の名前ではないから名詞ではないかというと、名詞である。

 「動く」や「起きる」は、動作を表すから動詞であることは誰にでも分かるが、「感じる」や「思う」は精神活動を表すから動詞ではないかというと、動詞である。

 動詞は動作や精神活動を表すといっても充分ではない。「ある」はどちらでもないが動詞だからだ。意味によって品詞の定義をすることには限界がある。

 英語には八品詞あって、30万、40万ある英単語は全て八つのどれかに属すと説明すればいいのである。品詞を一つずつ定義しようとしても、うまくいかない。全体を捉らえなくてはいけない。

 他にも、文法教育には問題がある。subjunctive moodは仮定法と訳すことが普通だが、接続法と訳さないと詐欺になることがある。bare infinitiveを原形不定詞と訳すのは、大間違いだ。toなし不定詞とすべきである。文法用語の訳がおかしいのだから、日本人に英語ができる人が極端に少なくても何ら不思議はない。

 「教師が話せないから、生徒も話せない」という見方もあるが、これは本当に見当違いだ。私は中学生の時、英会話ができると自慢していた教師二人に英語を教わったことがあるが、二人とも教えることに熱心ではなかったし、説明が下手でひどい目に遭った。一人は和訳もしないで、教科書を読んでばかりいた。

 「英語はあまりできない」と白状していた先生の方が、一生懸命教えてくれ、為になった。(おかしなことを教えられたこともあるが。)

 また、私が英語を教えた経験から言うと、生徒に会話を教えようとしても駄目だ。ごく簡単な英文でもノートを見ないと言えない。読む練習が足りないからだろうが、生徒に英語を話せるようになろうという意欲がないことも事実である。勉強だからやっている、試験があるからやっているのである。

 だから「文法や読解中心で育った教師に、明日から会話教育を求めても」(社説)実行に移せる訳はない。

 日本人は、英語に対して真面目でないのである。だから英語ができない。

・外国語の読み方
 英語に対していい加減なのは、英語教師や生徒だけではない。朝日新聞もそうだ。

 Reagan氏がアメリカの大統領になったとき、リーガンと言われていた。財務長官にReganという人がなって、こちらもリーガンでどうなっているんだと、マスコミが混乱したことがあった。予備選から就任式まで一年以上、ずっとレーガンと言わずに、リーガンと言っていたんだから、呆れる。人名の読み方なんかどうでもいいと思っているんだろう。Shultz元国務長官もシュルツでなくショーツである。

 マスコミ自身がこの体たらくなのである。中学生が英語に熱心に取り組まなくても何ら不思議はない。

 湾岸戦争で活躍したアメリカのSchwarzkopf将軍は、シュワルツコプではなくシュウォーツコプだ。‐war‐はウォーと読まなくてはいけない。日本のマスコミ関係者はGulf Warをいつもガルフウォーでなくガルフワルと言っていたのだろうか。英語の読み方には全く気を使っていないようだ。因に、schwarz Kopfはドイツ語で「黒い頭」という意味である。

 ドイツ語の読み方もおかしい。7月22日朝刊1面にドイツのWeizsäcker大統領の単独インタヴューが載った。ワイツゼッカーとなっていたので、読む気がしなくなった。ヴァイツゼカーとすべきだ。wは英語式に読んで、他はドイツ語式に読んでいる。

 Baden‐Württembergというドイツの地名を、バーデン=ブュルテンベルクと表記していたことがあったから、不統一だ。高木新記者はドイツにいるのにドイツ語の読み方も知らないのだろうか。本当はヴァイツゼカーが正しいことぐらいは知っているのだろう。それなのに朝日新聞はおかしな社内規則のために正しい表記ができない。

 9月18日の「赤えんぴつ」によると、原則としてヴは使えず、ブのみだそうだが、完全に時代遅れである。

 私は新聞を読んでいて「ワイツゼッカー」が出てきた途端、その記事を読むのを止める。バカらしくて読んでいられない。そして自分にこう言い聞かせる、「これは間違い。正しくはヴァイツゼカー。」こうしないと私自身が間違って覚えてしまいそうになる。大変な手間だ。

 大学の独文科の教師や学生はこういう間違いをどう思っているだろうか。ドイツに関する記事なら全て読んでくれるかも知れないこういう人たちを呆れさせて、新聞離れを心配するなんて愚かしい。

 因に聖教新聞はヴァイツゼッカーと書いている。宗教団体の機関紙なんかに負けていていいのか。

 日本語の表現や表記もひどいことがあるが、気を使ってはいる。だが、外国語となると途端にこうである。こういう態度も外国語ができない原因のひとつだと思う。日本人は外国語をそのまま受け入れようとしない。外国語の論理を尊重しようとしない。

 社説が載ったのと同じ日の8月31日の朝刊テレビ欄に三井ホームが広告を出している。そこにはLove is interior.という日本語に訳すこともできない英語もどきが書いてある。

 週刊新潮に群盲という言葉を使わせず、落合信彦氏の本の広告に髑髏が写っているからと、そのまま広告を載せさせないようなことをしているのに、どうして日本語に訳せもしないような和製英語を大きく紙面に載せるのか。

 結局、群盲や髑髏には読者からたくさん苦情が来るが、和製英語にはあまり苦情が来ないからだろう。だが苦情が来なければそれでいいのか。三井ホームのこの広告はかなり前から何度も朝日新聞に出ている。9月20日にも載った。三井ホームも日本語には気を使っているのに、意味不明の英語を書くんだからどうかしているが、いくら社説で英語教育の改革を訴えても、これでは説得力もないし、日本人の英語力も向上しないだろう。

 日本人のこういう英語に対する態度が、英語のできない原因のひとつではないだろうか。イメージアップやナイターなどの和製英語をこれから追放することはできないけれども、今後はおかしな英語は断じて使わないようにすることが、是非とも必要である。


 最近の社説は読み易くなった。2、3年前迄は「しなければならない」とか「すべきである」とかいった表現ばかりで、説教をされているような気分になった。「自分達の言う通りにしていれば、世の中全てうまく行く。」といった傲りを感じた。最近はそういうことは少ない。毎日の記事はどうしても断片的になってしまうので、出来事の背景や経緯をもっと説明する方がいいと思う。

  1993年10月14日
                                                             跡見 昌治

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朝日新聞に出した手紙(3) [朝日新聞に出した手紙]

【1993年08月12日か】-新聞というものは、多くの分野を扱う。だから不正確になっても仕方がないが、それにしても朝日新聞の記事は、間違いが多すぎないか。

・パソコンの安売り
 92年の10月頃からコンパックというアメリカのパソコンメーカーが、日本でも安く販売するようになり、他社も追随して、かなり報道された。だが、本当にコンパックの製品はそんなに安いのだろうか。NECも安売り競争に参入したといえるのだろうか。

 一連の報道は、定価のみを追っかけていて、実勢価格を全く考慮に入れていない。パソコンを定価で買っている人は、日本中探しても殆どいないだろう。例えばEPSONが6月に発売したPC-486ノートAS2は定価24、8000円だが、発売直後、池袋のビックカメラでは19、8400円で売っていた。5万円も引いている。一年経つと、15万円くらいになるだろう。

 実買価格を無視して、定価だけで、「このメーカーが安売りを始めました。今度はこのメーカーが安売り競争に参加しました。」と報じることは滑稽である。パソコンの分かる人はこういう報道を冷ややかにみている。メーカーは内心バカにしながらも、ただで宣伝してもらえて喜んでいる。

・ソフトウェア
  4月19日の朝刊の「新けいざい紀行」は、ジャストシステムを取り上げ、かなり面白かった。だが、本屋に並んでいる一太郎などの解説書は、どれもソフトの違法コピーのために売られているように書いてあったが、そんなことはない。ジャストシステム自体が一太郎の解説書を出している。

 ああいう本は、ソフトウェアについているマニュアルはわかりにくいので、それを補うために出ていることになっている。私自身はパソコンを買う前に、MS-DOSとはどういうものかを知るために、特別易しい本を一冊買って読んでみた。違法コピーをした人が買うこともあるだろうが、それだけではない。

 アスキーも自社で出しているTHE CARDというソフトの解説書を出している。ほんのちょっとした勘違いだけれども、分かっている人の信用を失う。一つでもおかしなことを見つけたら、朝日新聞の他の記事も信用できなくなり、結局新聞は取っているが、殆ど読まないということになる。

 5月の後半、パソコンのOSの一つであるWindows3.1が発売された。朝日新聞もこれを契機にパソコンの売上が伸びるかのように報じていたが、そうなるだろうか。

 確かに、発売直後はかなり売れたようだが、Windowsは2万円程するし、大容量のハードディスクを買わなくてはいけないし、インストールが大変なようである。また応用ソフトを新たに買わなくてはいけない。

 その日のキーワード欄はOSがテーマだったが、間違っていたと思う。そこにはOSはどのメーカーのパソコンにも使えるように書いてあったが、そうではない。NECの98シリーズには98用のMS-DOSが必要で、98用の応用ソフトが必要。98用のMS-DOSの上に、98用のMS-Windowsをのせると、Windows用の応用ソフトがメーカーに関わりなく使える。

 だからマイクロソフト社はソフトが共通に使えると宣伝しているのだ。だが応用ソフトは、新たに買わなければならないし、Windows用の応用ソフトはまだ少ないようだ。こんなに不正確だとパソコンの分かる人に信頼されなくなる。

 不明なことは『朝日パソコン』編集部に問い合わせればいいじゃないか。本紙を怒らせて戻れなくなったら大変だと、向こうからは何も言えないだろうから。縦割り行政ならぬ「縦割り編集」である。

 タダでマイクロソフトの宣伝をするのは、資源エネルギー庁から広告料を貰って記事のように見せかけて書くより問題かも知れない。(でもWindowsが日本で初めて発売されたかのように報じていたNHKよりはましだ。)

・家庭面の連載
 5月から6月の初めにかけて、家庭欄に「なんとなくシングル」という連載が載った。なんとなくシングルという人はほとんど登場しなかったから、タイトルからして良くない。

 また極端な例ばかり載っていた。本音を言っている人は一人もいなかったように思う。初めて会った新聞記者なんかに本心を言うわけがないが。

 日曜日は毎週美術館めぐりという人がいて「忙しくて寂しいと思う暇もない。」とか言っていたが、美術館にはアベックもいるだろうから、寂しいと思わないわけはない。

 誰もがいろいろな事情で結婚していないわけで、そういう本音が全く出ていなかった。大好きな人にふられて他の誰とも結婚しないと心に決めた人、ひどい男に騙されてもう男はこりごりという人、体の具合の悪い人。人によっていろいろな理由があるに違いない。そういうのが出ていなかった。建て前と強がりばかりだった。口では「平気よ。」「独身主義者なの。」と言いながら心の中では寂しいと思っている人は多いだろう。

 日本のマスコミは建て前が多すぎる。本音が出ていない。マイクロソフトがWindowsを発売するとなれば、いいいいと褒めちぎる。

 そもそもこの連載では全員仮名というのがおかしい。TIMEでは性暴力に遭った女性が実名で顔写真と共に登場する。そこまでやる必要はないが、連載を通して匿名というのはどうか。メディア欄のスウェーデンからの連載が示していたように、匿名では内容が無責任になる。

 実は私はこの連載は捏造だと思っている。全てそうでなくとも一部は捏造。またはインタヴューしたものの中から自分達のイメージに合うものを選んで、更に脚色したとか。

 不倫を肯定しているような人もいたが信じられない。私の知人で不倫をしていた人がいるが、後々まで苦しんだようだ。そんなことをすると本人も大変だし、周りも困る。

 現にニュースステーションの小宮悦子さんは不倫のため離婚したし、久米宏さんは、10年程前のことだが、不倫騒動のために番組を1週間ほどすっぽかした。不倫という民事訴訟を起こせるようなことを新聞が勧めるような連載をするのは異常じゃないか。結婚していない女性記者が自らを慰めるために企画したような気がする。

・本音と建て前
 他にも首をかしげたくなるようなことが多い。

 NHKの元会長の島桂次という人は、国会で偽証したりして、朝日本紙では批判されていたが、週刊朝日ではなぜか連載を持っている。こういうのはどうかしていないだろうか。新聞本紙では建て前を言っていて、本音は売れればいいということではないか。

 新聞社には新聞社の役割というのがあるから、たとえ本心ではそう思っていなくとも、正論を展開しなくてはいけないこともある。だが、余りに本音と主張が乖離していると、読者の信用を失う。

 例えば、最近は少なくなったが、朝日新聞には車の広告が多すぎた。朝刊の広告の半分が自動車で、残りの半分近くが不動産だったりする。これでは、いくら環境保護や大気汚染防止を訴えても、説得力はない。バブル経済の責任を政府や日銀に問うているが、朝日も不動産の広告を多量に載せて、バブルを煽っていたのではないか。

 92年の12月だったか、竹下登元首相は国会で証人喚問に応じた。この時竹下氏は「体制側の人間は、どんな批判にも耐えなければならない。」と話し、私はぎくっとした。どんなに批判されても、辞職はしないということだからだ。

 ところが93年の2月、再び国会で証人喚問に応じた竹下氏は、「以前は体制側の者はどんな批判にも耐えなくてはいけないと思っていたが、こういう考え方は古いと思う。何らかの措置を講じなくてはいけない。」と語った。辞職を示唆したのである。ところが「竹下辞職を示唆」と報じた報道機関はなかった。ニュースステーションは竹下氏のこの証言を放送で流したにも拘らず、竹下氏の本音は見抜けなかったようだ。そして、竹下氏は7月の衆議院選挙に立候補し、当選した。

 証人喚問や贈収賄事件などを執拗に追及しているけれども、こんなことも見抜けないで、一体何を考えて取材しているのだろうか。「辞職示唆」と報じておけば、竹下が立候補することはなかったろう。

・業者テスト
 92年の11月頃、埼玉県の教育長の発言がきっかけになって、業者テストに対する批判が巻き起こった。結局、全国的に業者テストは廃止されることになったが、これに関する論調は、朝日新聞も他の新聞・テレビもひどいものであった。

 業者テストや偏差値が攻撃されたが、業者テストを使わなければ、「青田買い」をしてもいいのだろうか。偏差値を使わなければ、12月に私立校が合否を決めてもいいのだろうか。

 この件で一番問題なのは、私立高校が「青田買い」をしていたことである。たとえ業者テストを使わずに、高校が独自に試験をしたとしても、「青田買い」はいけない。ところが、このことを忘れて業者テストばかりを批判していたから、結局業者テストは廃止され、中学は受験指導がしにくくなり、塾がその代わりをすることになった。7月23日の声欄にもそういう意見がでている。

 偏差値に対する批判がマスコミをおおった。偏差値が元凶だというのだ。朝日の紙面にも「脱偏差値」という見出しを何度も見た。こういう見出しを見る度に、私は「この人達は本当に思考力がないんだなぁ。偏差値なんかがそんなに悪いだろうか。何でも偏差値のせいにして、逆に本当の原因を見られなくなっているんじゃないか。」と思う。

 朝日新聞の記者の4割が東大卒だという。(ウィークエンド経済で見た。他の人も一流大学を出ているだろう。)東大を出たということは、偏差値競争に勝ち抜いてきたということだ。朝日に入社する時もペーパーテストでいい点を取っただろう。朝日新聞はマスコミの中でも一番難しいんじゃないか。

 そういう人たちが、「偏差値はやめろ」などと言っても全く説得力がない。東大の文Ⅰにするか文Ⅱにするか決める時に偏差値を使わなかっただろうか。偏差値を使わずに、どうやって受験学部を決めたのだろうか。

 確かに偏差値に振り回されてはいけない。だが、偏差値がなくなったとしても学歴は残る。学歴で人を判断することは続くだろう。それなのに何故偏差値にそんなにこだわるのだろうか。

 そもそも、偏差値でも、学歴でも、勤務先でも頂点に立っている朝日の記者や他のマスコミ関係者が、「偏差値やめろ」とか「学歴社会を是正しろ」などと言うのを聞けば、低学歴で低収入の人たちはどう思うだろうか。「何、ばかなことを言っているんだ」と思うのではないだろうか。私も、一流大学と言われる所を卒業したけれども、こういう報道に接すると、本当にうんざりする。

 よく「偏差値輪切り教育」などと言うが、偏差値に輪切りにされているのは、日本の教育でも中学生・高校生でもなく、朝日新聞の記者の頭である。他の新聞社・テレビ局の記者の頭である。頭が偏差値に侵されている。普通の人は偏差値なんかそんなに気にしてない。

・低レベル
 日本のマスコミ関係者は一生懸命やっているのだが、客観的な報道ができない。全くないことを捏造することはあまりないが、虚心に報ずることができない。自分達の安っぽい認識を読者に押しつける。どこの社も同じようなレベルの低い報道を、洪水のように流すから、殆どの人がそれに押し流されてしまう。

 92年2月頃、法政の英文学者が急に留学から帰国し、自殺したという記事を朝日で読んだ。どうもしっくりこない、狐につままれたような気分になった。たまたま週刊新潮を見たら、この英文学者はアイルランドで同性愛者の血液に触ってしまい、エイズに罹ったと思い込み、自殺したと書いてあった。

 朝日はその人の名誉のためにエイズには触れなかったのかも知れないが、それでは読者はどうなる。本当のことは分からないじゃないか。関係者の人権を尊重するなら、匿名で大学名も伏せて報じればいい。そうすれば、エイズに罹ったと思い込んで自殺してはいけないという教訓を得ることができる。

  今年に入ってから、日本コダックなどが就職内定を取り消し、かなり報道された。朝日新聞は、いろいろな会社が内定を取り消したとは伝えていたが、その取り消された人たちが、その後どうしたかは、私の知る限り、報じていなかった。ただ取り消しが相次いでいると伝えるのみであった。

 この学生達はどうしているのだろうと、私が不思議に思っていた頃、たまたまFOCUSを見たら、「内定を取り消された学生は、その後ほかの企業に就職が決まった。多くの学生が前の会社よりいいところに内定した。『そんな優秀な学生なら是非うちに』と言う会社に入れた。」と読んだ。

 朝日新聞を一生懸命読んでも、世の中がどうなっているか知ることができない。

・船橋の冷戦病
 7月10日船橋洋一編集委員はサミットを総括する記事を書いているが、この人はいまだに「冷戦病」が直っていない。こんな短い記事に4回も冷戦が出てくる。まるで冷戦を境にして世界情勢が、根底から変わったような印象を受ける。

 そんなことはない。冷戦の最中にも地域紛争も、保護貿易主義もあった。「偏狭な民族主義・宗教的情熱、閉鎖的保護主義、排他的地域主義」は冷戦時代にもあった。また「保護主義と管理貿易と地域主義が、自由で、差別のない、多角的な貿易ルールを歪めつつある。」と書いているが、そんな公正な貿易は歴史上存在したことがあるのだろうか。以前から存在しないものを歪めつつあると言うことこそ、事実を、現実を歪めている。

 クリントン米大統領について、船橋氏は「冷戦後の新たな国造りという『変化』を掲げて登場した同大統領」と書いているが、クリントンは経済再建を担って当選したのだ。船橋氏のように、冷戦で頭がいっぱいのアメリカ人はいないだろう。

 ちなみに、7月19日号のTIMEは東京サミットに3ページ充てているが,cold warという表現は一度も出てこない。朝日新聞などは、今回のサミットは殆ど成果がなかったように報じていたが、TIMEは、ロシアに対する援助とウルグアイラウンドに関して進展があったと肯定的に報じている。日本で起きたことでも、日本のマスコミはけちをつけるばかりだから、日本人は出来事をどう評価していいのか分からない。

・その他
 結局、日本人はマスコミが駄目だから本当のことを知ることができない。表面的なことは分かるが、本当のこと、正しい評価を知ることができない。外国のことなら英語の雑誌や新聞を読めば分かるが、日本のことはそうはいかない。

 教育に関してなら、若い読者は自分の経験に照らし合わせて、マスコミ報道が一部分を誇張しているのかどうか分かるし、年輩者も周囲の子供に訊いて実態を掴める。

 だが、経済や政治のことになると自分で直接見聞することは極めて少ない。どうしてもマスコミで報道されていることに、認識は大きく影響される。そしてその報道が、表面的で、同じようなことばかりだ。

 政治家の疑惑が発覚すると、証人喚問を要求する。そして、大して成果のない証人喚問だったと言う。そうなることは、初めから分かっているのだから、社会党などが自民党に証人喚問を要求しても、マスコミまで要求する必要はない。

 そもそも社会党などが喚問を要求するのは、この機会にできるだけ自民党のイメージをダウンさせておいて、次の選挙を有利に戦おうという作戦なのだ。その作戦にマスコミが協力するのはおかしい。

 一方、社会党など旧野党に対しては、自民党の批判を取り入れて、「抵抗ばかりしている」などと言っていた。そうやって、日本の政治を実際以上に悪く言って、政治不信を助長してきた。

 新聞をざっと読み、テレビのニュースを一通り見ただけでは、日本がどんな国なのか殆ど分からない。朝日新聞は、政府の情報公開に関して国民の知る権利を唱えることがあるが、朝日こそ国民の知る権利を侵害している。

 海外のメーカーが日本で安いパソコンを発売し始めると大きく取り上げるが、アメリカではそういう安売り合戦のために、小さなパソコンメーカーが潰れていることは全く報じない。内定取り消しなどニュースになりやすいことは、大きく取り上げるが、取り消された人たちがその後どうなったかは報じない。

 正確な報道をする気があるのだろうか。受けばかり考えているのではないだろうか。部数のことばかり考えているのではないだろうか。

 自分達の責務が分かっているのだろうか。毎日ただあたふたと、新聞をつくっているのではないだろうか。何千万人もの人が朝日新聞を読んでいるという意識があるのだろうか。こういう現状に私は絶望せざるを得ない。

p.s. 8月7日夕刊のウィークエンド経済の風刺漫画の英語が間違っていた。forcusではなくfocusだ。前からここの英語はおかしいと思っていたが、とうとうやったかという感じ。なぜ英語をここに書くのか。日本人が英語ができないのは、こういうふうに不必要な所に英語を使うことと関係あるような気がする。
                                                                                                                 跡見昌治

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朝日新聞に出した手紙(2) [朝日新聞に出した手紙]

【1993年春】-私は、去年の7月28日の小栗敬太郎氏の記事に対して批判の文章を書いた。だが、その努力は無駄だったようだ。

 11月頃全く反省していないため、また同じようなことを一面に書いていた。野党は冷戦型の抵抗しかできないとか。間違いを指摘されて改められないのでは、政治家と同じではないか。

 こういうことをしていると読者に信頼されないだけでなく、軽蔑もされる。実際、私は小栗さんのことを軽蔑することになった。 

 他にも「冷戦病」患者はいる。船橋洋一氏だ。船橋氏は「冷戦病」だけでなく「バブル病」の患者でもある。そんなに冷戦とかバブルとかばかり書いていて疑問に思わないのだろうか。ソ連の崩壊と東欧の民主化のことも冷戦の終焉と言っている。関係はあるが厳密には違う。英語のニュース雑誌でははっきり区別されている。

 そもそも船橋氏の文章は、経済地球儀など気取った言葉遣いが多くて、何が言いたいのか分からないことが多い。普通に書いたほうがいい。雑誌で拝見したが、服装まで気取っていた。全然似合っていなかった。実力はあるみたいだから、気取ったり、背伸びしたりしないほうがいいと思う。

・和田さんの記事
 ずいぶん古いが92年8月15日の一面にひどい文章が出ている。最近ニュースステーションに出ている和田俊氏の文章だ。(テレビのテロップでは編集委員になっているが、論説委員から降格になったのかな)

 まず第一段落の終わりで「違いあるまい」と書いているが、この表現は日本語として間違っていると思う。朝日新聞ではよく見かけるが、「違いない」といういい方は断定していないのだから、更に否定推量を表す「まい」を付けるのは意味の上からいっておかしい。統語論的には、「まい」は動詞につく助動詞で、五段動詞には終止形につき、他の動詞には未然形につくのだから、「違い」という名詞に付けることはできない。

 新聞記者が文法的に正しい文章が書けないのだから、日本人全体が無教養だったり、政治家がものを知らなくても仕方がないかも知れない。それもある記者だけがこんな言葉遣いをしているならまだ救われるが、この言い方が少なくとも朝日新聞には定着しているのだから、絶望的である。同じように、「しなければなるまい」というのも間違い。「しなければならない」はひとかたまりの表現だから分解して、「まい」を付けることはできない。「しなければなる」が「しなくてもいい」という意味にはならないから、「まい」を付けることはできないのだ。

 和田さんの文章に戻ると、第二次世界大戦の戦死者の碑文に言及したあと、和田さんは「不愉快な過去は水に流して、なるべく早く『忘却の河』を渡ってしまおうとする、われわれとはどこかが違う。」と書いているが、和田さんは新聞記者でありながら、広島や長崎の反核運動を知らないのだろうか。毎年8月15日には政府が戦没者追悼式典を主催するのをご存じないのだろうか。知っているだろう。それなのになぜ、日本人は嫌なことはすぐ忘れようとするなどと書くのだろうか。

 日本ではこういうふうに間違った考え方が定着していて、たいていの人が多くのことを誤解している。誤解したまま死んでいく。

 日本人もフランス人も被害も受けたことは忘れないようにするが、害を与えたことには無頓着なのだ。中国人もそうだ。日本に占領されたことは口にするが、自分たちがチベットを支配していることには触れないようにする。そういうものだ。

 だからといって、日本の戦争責任を忘れていいというわけではない。一般的にどうかということをしっかりおさえたうえで、日本の批判をしないと日本人の日本嫌いを生んでしまう。実際、日本のマスコミはいい加減な報道により日本人の日本嫌いを生んできた。

 記事の後半で和田さんは次のように書いている。

「ゲルマン文化もフランス文化も、価値に優劣はなく、ともに共存すべしという考え方が、次第に人々に受け入れられてきたのだ。」
「フランスには独特のチーズがあり、わが国にはみそ汁がある。」

 この部分はフランスとドイツが戦争を起こしたのは、相互の文化理解がなかったからだというのか!じゃあ、内戦はどうなる。異文化の理解が足りないから戦争が起きるというのなら、内戦は起こらないはずじゃないか。

 ドイツ人がフランスを攻めたのは、フランスのチーズを知らなかったからとでも言うのか。日本が中国を侵略したのは、日本人が中国文化を知らなかったからだとでも言うのか。こんな馬鹿げた短絡的な議論は聞いたことがない。

 ナチスドイツは、オランダも占領下に置いた。オランダ語はドイツ語の方言と言ってよい。ドイツ語の方言地図を見ると大抵オランダまで含まれている。オランダ語とドイツ北部の方言は極めて似ている。国境線の所で、言語が急に変わるわけではないのだ。

 言語というのは勿論文化の重要な一部である。言語が似ていれば習慣や考え方も似ているだろう。それでもドイツはオランダを占領したのである。文化と戦争はまったく関係がない。

・アメリカ大統領
 和田さんは、テレビでクリントン・アメリカ大統領のことを若くていいと言っていた。確かにクリントンが当選した理由のひとつは、若いということだろう。だが、若さだけでクリントンを評価するなら、それはクリントンとクリントンに投票した人に失礼であり、馬鹿にしている。

 若いというだけで、いったい何だというのだ。政治家は若ければそれだけでいいのか。政策は関係ないのか。政治家はどんな政策を実行するかによって評価されるべきであって、年齢はどうでもいい。老人よりは若いほうがいいが、若さだけでクリントンを評価するのは、不勉強だからじゃないか。

 ブッシュは前回の大統領戦で増税はしないと言って当選したのに、財政赤字削減のため増税した。それも中産階級には増税して、金持ちには減税したのだ。こんな人が当選したら大変である。

 ではクリントンの方はどうかというと、選挙の終盤ではまとまった政策を提示していたが、夏頃までは「減税します、財政赤字はなくします、環境問題に取り組みます、企業に対する規制をなくします、中絶は容認します、胎児の人権を尊重します。」などと相矛盾することを平然と言ってのけていたということだ。さすがにこれはいけないと、側近がこんなことは言わないようにさせたようだ。

 どんな選挙でもそうだが、自分の考えを正直に言う候補者などいないだろう。どういうふうに訴えたら、有権者に受けるか考えて演説するのである。誠実に自分の考えていることを率直に話す候補者など世界中にひとりもいないだろう。

 和田さんだって自分の思った通りテレビで話すだろうか。「こう言ったほうが視聴者に評判がいいだろう」とか、「こんなこと言ったらきっと苦情が来るだろう」とか色々考えながら話しているだろう。クリントンだってそうである。ある時まではそれだけ考えていたのである。

 「アメリカには若い大統領が誕生したのに、日本の総理は年寄りですね。」などというコメントを宮沢総理が聞いたら、「この新聞記者はなんて不勉強なんだろう。」と思うだろう。宮沢さんもTimeを読んでいるというから、上に書いたことは知っていると思う。「こんな不勉強な新聞記者が何と言おうと知らないねぇ。」と総理は思っているに違いない。

 こういう思いは総理以外にも大抵の政治家にあるだろう。自民党の議員がスキャンダルを起こしたのに、野党まで含めた政治家全体が何かしでかしたように言われれば野党の議員はみな憤りを感じるだろう。

 四月八日の天声人語も自民党の政治家と野党の政治家を混同している。こうやって実際以上に日本の政治が悪いように日本人に思わせている。そして、投票率が落ちたと言って嘆いている。馬鹿みたいだ。

 自分たちで政治を悪く言いすぎておいて、投票率を下げておいて嘆くなんて。そんな程度だから新聞は段々読まれなくなっていくんだ。私だって新聞を読んでいて、いやになることや憤慨することは毎日何度もある。よくもまあこんなに短絡的で生きていられるなと思うこともある。

・経済大国
 ひとりの記者が頭が悪くても構わないのだが、みんなでおかしなことを言っているから絶望的なのである。

 例えば、日本は経済大国なのに家が狭いという人が多いが本当にそうだろうか。

 まず、家が狭いのは都市部でのことであって、田舎では家は広い。日本中の家が狭いかのようにいわれたら、田舎に住んでいる人たちは自分たちは日本に住んでいることにならないと思って、田舎に住んでいるのがいやになり、都会に出てきて、都市部の地価は更に上がる。

 結局、おかしな報道をすればするほど、都市部は混雑し住みにくくなる。

 小此木 潔氏はニューヨークから帰ってきてすぐ(92年10月頃)、ウイークエンド経済に「日本は経済大国なのに何故家は狭く、電車は混むのか。」と書いていたが、この人はアメリカで一体何を見てきたのだろうか。アメリカは世界一の経済大国であるが、暴動が起きるくらいに貧富の差が大きい。

 ロスアンゼルスの暴動は人種対立ではなくて、貧富の差が原因である。黒人の商店も襲撃されたからだ。絶頂期の大英帝国にも貧乏人がかなりいたようである。経済大国だからといって何もかもうまくいくと考えるのは、残念ながら歴史を知らない人である。思考力のない人である。

 ではそのようなレベルの低いことを言っている人たちは悪意があるのかというと、そうではなく、良心的な人だから私は余計絶望するのである。

・要望
 これからは是非十分考えてから、記事を書いたり発言したりしてほしい。新聞やテレビが日本人の認識や考え方を決定するのである。だから日本をよくするためにはマスコミがまずよくならなくてはいけない。だが朝日新聞の記者にはそういう認識がないようだ。

 というのは、93年2月19日の夕刊p.3に朝日ジャーナル最後の編集長下村満子氏のインタビュー記事が載っているが、その見出しがおかしいからだ。オランダ人のフェネマさんは、「日本の変革は、まず報道から。報道の役割はとても重要です。」(最後の段落)と日本のマスコミ批判をしているのに、見出しは「改憲は左右から提案を」と憲法論議にすり替えている。これでは朝日新聞は決して変わらないと宣言しているようなものだ。フェネマさんはとってもがっかりしたと思う。私は憤慨した。

 土曜日の朝刊に赤えんぴつという連載があるが、この第一回に見出しの付け方を何人もの人がチェックすると書いてあったが、それが本当だとすれば朝日新聞の抱える問題は根が深いということになる。

 日曜日の投書欄に「読者と新聞」というコーナーがあるが、これは確か珊瑚事件をきっかけに作られた。この欄は初めのうちは緊張感が漂っていたが、今ではだれている。ただ「こういうことがありました。」と報告しているだけである。そしてまた記事の捏造が発覚した。日本の古代遺蹟に関する記事である。結局少しでも目立つ記事を書こう、少しでも成績を上げようという競争心に取りつかれたままなのではないか。

 朝日ジャーナルに関して。朝日ジャーナルが廃刊になったとき、「若者の活字離れが原因」とか、「日本にはこういう硬派の雑誌は育たないのか」とかいい加減なことを言う人ばかりだった。

 なぜか内容に言及する人は一人もいなかった。内容が悪かったのである。下村氏はレイアウトとデザインで売ろうとしていた。売れるわけはない。

 「日本/権力構造の謎」を書いたカレル・ヴァン・ウォルフェレン氏のインタビューが載っているというので久しぶりに朝日ジャーナルを見たことがあった。

 記者はひどいことに、ウォルフェレンの本を読んでいないようで、一般的な質問の後、時間が余ったらしく、「日本の官僚は“Structural Impediments Consultation”を構造問題協議などと訳しているから駄目なんでしょう」などと言い始め、ウォルフェレンが「そんなことは関係ない」と言っても、「impedimentは障害という意味なのに問題などと訳しているから、日本の官僚は駄目なんですね」としつこく言っていた。本当にしつこかった。この部分を下村氏は読んだのだろうか。

 ウォルフェレンという人は、世界の日本観を永遠に変えた偉大な人である。そんな人にこんなくだらないインタビューをするとは許せない。私が編集長だったら、こんなのは編集部から追い出す。新聞記者には向かないといって、退職を勧める。

 なぜこんなひどい記事が多いのか。思考力がないからである。自分の頭で考えることが出来ない。基本的な事実を押さえて、論理的に考えることが出来ない。よく知られた事柄を結び合わせて、まともな議論だと思っている。

 例えば、日本人が英語が出来ないのは、島国だからだとか。他の島国の人も英語が出来ないのだろうか。日本人の英語と島国は何も関係がない。ではなぜそんな短絡的なことを言うのか。思考力がないからだ。

 こう書くと、朝日の人は「教育が悪いからでしょう」と言いそうであるが、あまり関係ないと思う。私も、思考力を養うような教育は受けたことがないからだ。今のままの教育でも自己批判をしながら考えていけば、ちゃんとした議論は出来る。教育のせいにしてはいけない。

 ともかく、思考力を養って新聞記者としての使命を果たしてほしい。流れに身を任せて、思いつきで短絡的なことは言ってほしくない。
                                  跡見昌治

(この回からソネットに載せるに当たり、本文内に見出しをつけることにしました。2010年6月23日。)

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朝日新聞「座標 すみわけの平和を 文化尊重し合い共生」(1992年8月15日付朝刊) [朝日新聞に出した手紙]

和田俊・論説副主幹

 夏のこの時期、パリを訪れる日本人はおそらく大変な数にのぼるだろう。ルーブル美術館、モンマルトルの丘、シャンゼリゼ大通りなど観光の名所には、わが国からの団体客がうねりのように、寄せては返しているに違いあるまい。

 その人たちに、観光の王道を少しはずれてみることを、おすすめしたい。たとえばシテ島のノートルダム寺院を訪ねたなら、ほんのちょっと足を延ばして、パリ警視庁周辺をひとりで散歩してみるのである。注意深い人ならば、建物の壁面のあちこちに「194×年×月×日、愛国者にしてレジスタンスの闘士何某、ファシストの凶弾に倒れ、ここに没す」といった碑文の埋め込まれていることに気付くはずだ。

 かつて、鮮血がここに流れ、1人の人間が息をひきとった。その事実を忘れまいとする、ヨーロッパ的執念がそこから伝わってくる。

○戦争はだれがおこす
 不愉快な過去は水に流して、なるべく早く「忘却の河」を渡ってしまおうとする、われわれとはどこかが違う。文化の差であろうか。街路の石畳に耳をあてて、歴史の足音を聞いてみたい気持ちに襲われる。

 しかし、過去からただよってくるものは、どちらかといえば、荒々しい野蛮な雄たけびである。フランスの戦争学研究所の調べによると、18世紀半ばから今日にいたるまで、この地上に武力紛争のなかった年は1年もみつからない。なかでも、ヨーロッパの歴史には戦争が色濃く影を落としている。

 それだけに、悲惨な現場を記憶しようとする執念も、激しさを増すのだろう。だが、そこには正負ふたつの面がありそうだ。怨念(おんねん)がナショナリズムに結びつくと、報復心が燃え、暴力の悪循環を招く。いまバルカン半島にみるように、戦火が戦火をよび起こすのだ。

 だが、歴史は他方で偉大な教師であり続ける。過去に目を向け、その再検討を怠らずにいれば、国家間の戦争の背後にひそむ、権力のからくりも透けて見えてくるのだ。

 戦争とはだれがおこし、被害を受けるのはもっぱらだれか。デンマークの軍人が「戦争絶滅請け合い法案」なるものを、冗談に作成したことがある。その内容はすこぶる皮肉なものだ。「各国政府は開戦後10時間以内に、最前線に送って実戦に従事させるものを、次の順序にすると取り決める。まず第1に国家元首、次に元首の男子親族、次に総理大臣、国務大臣、国会議員、ただし戦争に反対投票した議員は除く」。この条約を各国が守りさえすれば、戦争は絶滅請け合いというわけだ。

○相対主義が生む変化
 国家を構成する支配の関係を、覚めた視線で相対化する姿勢は、平和の確保に役立つに違いない。

 第1次大戦に兵士として参加したフランスの哲学者アランは「平和の精神とはまず第1に知性である。たとえ殴り合いの最中でも、げん骨をふりまわすと同時に、理屈を投げ捨ててはいけない」と強調する(『マルスあるいは裁かれた戦争』)。

 知性への信仰も、もう1つのヨーロッパ的執念であろうか。なぜげん骨をふり続けるのかと問うて、アランは「平和には他者の自由を願う慈愛の精神も必要だ」という認識に到達する。排外的なナショナリズムをどう克服するか。その鍵(かぎ)の1つが、ここにひそむ。

 独仏両国は過去150年、果てしなく戦争を繰り返してきた。その宿敵がいまでは欧州共同体の2本柱として肩を組み、もう二度と武力で戦うことはなさそうである。そこにどのような変化が起こったのか。

 それを探っていくと、権力と文化に対する二重の相対主義が浮かび上がってくる。権力であれ、文化であれ、他者を犠牲にして覇を唱えるほど優越的なものは存在しない。ゲルマン文化もフランス文化も、価値に優劣はなく、ともに共存すべしという考え方が、次第に人々に受け入れられてきたのだ。その視点に立つと、ヒトラーの狂信は意味を失う。

○経済力におごる危険
 人間はだれしも、自分の生活様式に愛着をもつ。だから、フランスには独特のチーズがあり、わが国にはみそ汁がある。とはいえ、普通はいやがる外国人に無理やりみそ汁を飲ましたりはしない。人間の生活はもともと非攻撃的なものなのである。近代の過ちは、文化を国家の支配下に置いたことであろう。

 その反省から、文化の多元的な共生の思想が生まれる。強者が弱者をとうたするダーウィン的な進化論よりも、異質なものの平和的すみわけの理論が求められるのだ。

 最近のわが国の風潮には、一抹の不安がある。経済の国家的成功を文化的優位と取り違えてはいないか。歴史はその危険を教えている。


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「朝日新聞に出した手紙」シリーズについて [朝日新聞に出した手紙]

【2010年06月19日】-以前から時々、メディア特に朝日新聞に手紙を送ってきたと述べてきたが、おととい初めてその手紙を載せた。

 新しく執筆しなくてもエントリーを作れるから、以前から考えていたが、都合がつかなかった。その時取り上げたいテーマで新たに書かないと、そのテーマはずっと扱えないことになるからだ。

 朝日新聞から圧力がかかる心配もあった。だが大手メディアの人達はまだこのブログに気づいていないようなので、載せても当分の間は見つからないだろうと思うようになった。

 体力が回復したこともある。何年も見ていないファイルを読み直すのは大変なような気がした。(実際には1通目を読み返すのは楽だった。)

 「朝日新聞に出した手紙」というカテゴリーには全くエントリーを載せていないのに、何人もクリックする日が時々あるので、それも載せる動機になった。

・掲載の方針
 このブログでは、段落は5行くらいまでにして、間に1行空けることにしているので、朝日などに出した文章では改行と空白を増やすことにする。

 また誤字、脱字や固有名詞の間違いはできるだけ直す。勘違いや的外れな批判もあるが、内容には手をつけない。余りにひどい場合は注記するつもりだ。

 30通目あたりから4万字くらいの長さになるので、全文を1本のエントリーとして載せるのは無理だ。またその頃から暴言や暴論が増えるし、文章の7割くらいが記事や広告の言葉遣いに対する批判になったので、そのまま載せることはできない。

 だから長くなってからは、報道内容に対する批判だけを抜粋するするつもりだ。

 公表する価値のある部分もあるので、抜粋を本にしてくれる出版社があったら連絡を頂きたい。インターネット・ニュースでも構わない。

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朝日新聞に出した手紙(1) [朝日新聞に出した手紙]

【1992年08月か】-参議院選挙の二日後の7月28日 政治部長の小栗敬太郎氏は、朝刊の一面で今回の参議院選挙の投票率が50%前後だったのは、「既成政党」が見離されたからだと書いている。だが、見離されているのは政党だけだろうか。政治家だけが信用されていないのだろうか。決してそんなことはない。マスコミも信用されていない。朝日新聞はその中でも特に信用されていないかもしれない。

 主催していることもあって、高校野球に2ページも3ページも紙面を割く。何か大きな出来事があると、不必要に大きな見出しを掲げ、そのことばかり書く。それによって普段なら載る記事がその日は載らなくなってしまい、結局そのことは永遠に読者には知られない。このようなことから、朝日新聞はいい新聞だと言う人には一度も会ったことがない。

 理由はほかにもある。例えば、8月14日の社説は企業が人を雇う時、年齢制限をするのは差別だと書いているが、朝日新聞は年齢制限をしていないとでも言うのか。しているじゃないか。30歳迄しか雇わないではないか。それなのに年齢制限は差別だからやめろという。こんな矛盾したことをする新聞社を信用する者がいるだろうか。いたとしたら、その者は馬鹿だろう。

 さて、小栗氏の文章だが、これはとてもひどい文章だ。内容が荒唐無稽だ。冷戦冷戦と馬鹿の一つ覚えのように繰り返している。こんな短い文章に冷戦が7回も出てくる。今回の選挙戦でこんなに冷戦は登場しただろうか。登場しなかった。日本のマスコミの悪い癖で何でもすぐ冷戦と関連づける。だがこんなに冷戦冷戦と書く新聞記事は珍しい。

 実際どれくらい冷戦が選挙中争点になったか、データベースを使って調べてみたが、殆どない。

 26日朝刊に参院選投票日に向けての各党声明という記事があるが、この中で冷戦に言及しているのは社民連だけ。自民党は「ソ連の崩壊後初の国政選挙」と、言っている。

 ほかにも冷戦に言及している記事はあるが、それはちょっと触れる程度。だが、この小栗氏の記事は、冷戦を柱にして今回の選挙を見ようとしている。無理な見方だ。

 まず新聞記事には珍しいですます調を使っているのが、特徴。中身のなさを隠そうとしているのか。

 第一段落で、「棄権党」などと言っているが、こういう言い方は社会現象を論ずるには相応しくないと思う。

 第三段落では冷戦型発想から日本の政党は抜け出せないと書いているが、冷戦型発想から抜け出せないのは小栗氏自身ではないのか。冷戦だけで日本の政治を理解しようとするのはめちゃくちゃである。もしそうだとしたら、民社党が社会党と対立してPKO法に賛成したのはどう説明するのか。

 第四段落で、PKO協力法が選挙の争点だったというのは「どの程度本当でしょうか」と書いておきながら、次の段落で「PKOはやはりこんどの選挙最大のカギでした。」というのは矛盾である。争点とカギと別の言葉を使っているが、結局同じことである。こういうことを書くのは、読者を愚弄しているからではないのか。

 第六段落で、「冷戦後という海図のない海域」などと言っているが、冷戦の時には海図があったとでも言うのか。国際関係は常に手探りである。針路がはっきりしている時などほとんどない。

 確かに「憲法も国際貢献もということでは」全政党に合意があったと思う。

 第九段落で社会党は「息子を戦場に送るなという、昔ながらの決まり文句で答え」とあるがこれは完全な事実誤認である。社会党は別組織でPKOに対応しようとしていた。小栗氏はちゃんと新聞を読んでいたのか。こういう事実誤認は他にもたくさんあるが、事実に基づいて論じないと、社会党に信用されなくなるだけでなく、読者にも見離される。更に、こういう誤報が日本の政治を一層ダメにしていると思う。

 第十段落で、イデオロギーなどと言っているが、自民党も社会党も共産党も国際貢献の必要性は認めていた。もし社会主義が戦争を否定するなら、スターリンのしたことはどう説明するのか。誰もイデオロギーで「裁断」しようとしていない。いつまでもイデオロギーで政治を理解しようとしている者は他にはいない。

 次の段落はまた話にならない。与野党と書いているが、今回の対立は自公民 対 社会社民連である。再び事実誤認。「相手の動機や目的を全面的に否定」するとはどういうことか。政党はみな日本の発展を考えている。与野党が一致団結して法案を成立させることもある。新聞記者でありながら、日本の政治が分かっていないのではないか。いつの時代でも「バランス」をとらなくてはならない。私はこういう言い方が大嫌いだ。いつの世でもしなければならないことは同じ。人間は古代から基本的に変わっていない。

 参院ねじれと脱冷戦は関係がない。社会党の牛歩は「冷戦型極限対立」ではない。憲法違反の法律を成立させないために、最後の手段を取ったのである。うまいやり方ではないが、今からでも話し合えなどと言う朝日の社説よりはましである。

 最後の段落に関して言うと、日本の政治はそれほど悪くない。イラクや北朝鮮のように独裁国家ではないし、ユーゴスラビアやアフガニスタンのように内戦をしているわけではない。確かに政権交替はない、賄賂は蔓延している。だがどこの国の政治もあまりうまくいっていない。それなのに日本のマスコミは現実以上に日本の政治を悪く言う。事実を誤認して批判する。これでは国民の政治不信がよけいに高まってしまう。

 日本の政治をよくしたいと本当に願うのなら、是非正確な議論をしてほしい。思い込みや偏見に満ちた記事は有害無益である。最近の佐川急便に関する報道でも、自民党の議員しか関与していないのに、野党まで含めた日本の政治全体が腐敗しているかのように報じていて誤解を招く。


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朝日新聞「参院選を終えて 本当の敗者は『既成政党』」(1992年7月28日付朝刊1面) [朝日新聞に出した手紙]

  朝日新聞 政治部長・小栗敬太郎 

 物事は時間がたつと別の顔が見えてくるものです。「自民党復調、社会党不振」で終わった参院選開票のあわただしさから一夜明けて、本当の勝者は「棄権党」だったと気づきました。なにしろ、有権者の2人に1人が棄権したわけで、「得票率」は50%。第1党と力んでも5人に1人前後の支持しかない自民党も顔色なしの圧勝です。

 それでは、負けたのはだれなのでしょうか。世界が冷戦を超えて進んでいるのに、その現実にふさわしい政治の質をつくり出せない既成政党。その冷戦型発想にこそ、主権者は反省を求めている。そんな気がしてなりません。

 選挙の争点が国連平和維持活動協力法(PKO協力法)だった、というのはどの程度本当でしょうか。序盤には社会党が「PKOで国民の審判を仰ぐ」といっていました。終盤になると、入れ替わりに自民党が同じことを主張し始めました。

 形勢次第で都合のいいように争点を変えるのは政党の常。その思惑は別にして、PKOはやはりこんどの選挙最大のカギでした。

 といっても、PKO法の内容そのものに国民が手放しの信認を与えたという理解は単純すぎます。「冷戦後という海図のない海域に入った日本のカジ取り能力をだれが持っているか」に国民は目を凝らしていたのであり、PKOは格好の試金石だったと思うのです。

 PKOをめぐって国論が「憲法か国際貢献か」に二分された、との図式は正確でありません。「憲法も国際貢献も」ということでは、幅広い常識がありました。その方法がはっきりしなくて、迷っていたというのが、正直な実感でした。

 こんなもどかしさをどの政党が明確な言葉に表し、両立させる方法を政策にまで鍛え上げて提示してくれるか。国民はその競争に期待していたはずです。

 そのテストで、自民党は自衛隊に頼るという安易な答案を示しました。社会党は「息子を戦場に送るな」という、昔ながらの決まり文句で答え、牛歩や議員辞職騒ぎのだめ押しまでしました。

 ことはPKOに限りません。国内も国際も、政治も経済も、わが国が直面している課題は、イデオロギーの刀1本で裁断するにはあまりにも複雑になっています。

 これまで与野党は互いに相手の動機や目的を全面的に否定しあう論争を繰り広げてきました。これからは、物事の優先順位やバランスをとる方法の有効性を競う時代に入ったといっていいでしょう。

 民主政治は、複数政党が存在して、自由に選挙で国民の支持を争うことが必要条件です。しかし、それだけでは十分ではありません。政権交代が不可欠です。少なくとも、野党が本気で政権をとろうと挑戦しない限り、形だけの民主主義といわざるを得ません。

 政権交代のある政治に近づくには、脱冷戦時代にふさわしい新しい政治の対抗軸をすえることが第一歩でしょう。生産中心か消費中心か、高福祉高負担か小さな政府か、などなど。どのような対抗軸を設定すれば国民の気持ちを引きつけるか、それこそが政党にとっての知恵比べでしょう。

 野党が「自民党の行き過ぎにブレーキをかけていればいい」という、抵抗政党のタコつぼにこもっていては、いくら誇るべき憲法があるといっても、民主主義は片肺です。

 野党の責任は重大です。「冷戦ボケは自民党も同罪」と、澄ましていては困ります。野党が与党を超えない限り政権交代は起きません。ボクシングでも、引き分けではタイトルは取れません。それが挑戦者の宿命というものでしょう。

 実は、脱冷戦時代の政治のテストは、3年前に始まっていました。参院選挙で自民党が大敗して始まった「衆参ねじれ」状況がそれです。

 社会党が安全保障、外交など基本政策の見直しに取り組み、影の内閣を発足させたのは、それを意識してのことと承知しています。それが根付かないまま、PKOへの反射運動のように、冷戦型極限対立のわだちに「先祖返り」してしまった観があります。こんどの敗北から何を学ぶのか、党内論議を注目したいと思います。

 自民党は敵失で救われました。この調子で3年後の参院選にもう一度勝てば、衆参ねじれは解消して「世はこともなし」というのでしょうか。投票所に背を向けた少なくない国民の胸中に、政治システムそのものへの幻滅、既成政党への愛想つかしがうごめいていることを恐れないでいいかと、他人ごとでなく心配します。


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