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朝日新聞に出した手紙(2) [朝日新聞に出した手紙]

【1993年春】-私は、去年の7月28日の小栗敬太郎氏の記事に対して批判の文章を書いた。だが、その努力は無駄だったようだ。

 11月頃全く反省していないため、また同じようなことを一面に書いていた。野党は冷戦型の抵抗しかできないとか。間違いを指摘されて改められないのでは、政治家と同じではないか。

 こういうことをしていると読者に信頼されないだけでなく、軽蔑もされる。実際、私は小栗さんのことを軽蔑することになった。 

 他にも「冷戦病」患者はいる。船橋洋一氏だ。船橋氏は「冷戦病」だけでなく「バブル病」の患者でもある。そんなに冷戦とかバブルとかばかり書いていて疑問に思わないのだろうか。ソ連の崩壊と東欧の民主化のことも冷戦の終焉と言っている。関係はあるが厳密には違う。英語のニュース雑誌でははっきり区別されている。

 そもそも船橋氏の文章は、経済地球儀など気取った言葉遣いが多くて、何が言いたいのか分からないことが多い。普通に書いたほうがいい。雑誌で拝見したが、服装まで気取っていた。全然似合っていなかった。実力はあるみたいだから、気取ったり、背伸びしたりしないほうがいいと思う。

・和田さんの記事
 ずいぶん古いが92年8月15日の一面にひどい文章が出ている。最近ニュースステーションに出ている和田俊氏の文章だ。(テレビのテロップでは編集委員になっているが、論説委員から降格になったのかな)

 まず第一段落の終わりで「違いあるまい」と書いているが、この表現は日本語として間違っていると思う。朝日新聞ではよく見かけるが、「違いない」といういい方は断定していないのだから、更に否定推量を表す「まい」を付けるのは意味の上からいっておかしい。統語論的には、「まい」は動詞につく助動詞で、五段動詞には終止形につき、他の動詞には未然形につくのだから、「違い」という名詞に付けることはできない。

 新聞記者が文法的に正しい文章が書けないのだから、日本人全体が無教養だったり、政治家がものを知らなくても仕方がないかも知れない。それもある記者だけがこんな言葉遣いをしているならまだ救われるが、この言い方が少なくとも朝日新聞には定着しているのだから、絶望的である。同じように、「しなければなるまい」というのも間違い。「しなければならない」はひとかたまりの表現だから分解して、「まい」を付けることはできない。「しなければなる」が「しなくてもいい」という意味にはならないから、「まい」を付けることはできないのだ。

 和田さんの文章に戻ると、第二次世界大戦の戦死者の碑文に言及したあと、和田さんは「不愉快な過去は水に流して、なるべく早く『忘却の河』を渡ってしまおうとする、われわれとはどこかが違う。」と書いているが、和田さんは新聞記者でありながら、広島や長崎の反核運動を知らないのだろうか。毎年8月15日には政府が戦没者追悼式典を主催するのをご存じないのだろうか。知っているだろう。それなのになぜ、日本人は嫌なことはすぐ忘れようとするなどと書くのだろうか。

 日本ではこういうふうに間違った考え方が定着していて、たいていの人が多くのことを誤解している。誤解したまま死んでいく。

 日本人もフランス人も被害も受けたことは忘れないようにするが、害を与えたことには無頓着なのだ。中国人もそうだ。日本に占領されたことは口にするが、自分たちがチベットを支配していることには触れないようにする。そういうものだ。

 だからといって、日本の戦争責任を忘れていいというわけではない。一般的にどうかということをしっかりおさえたうえで、日本の批判をしないと日本人の日本嫌いを生んでしまう。実際、日本のマスコミはいい加減な報道により日本人の日本嫌いを生んできた。

 記事の後半で和田さんは次のように書いている。

「ゲルマン文化もフランス文化も、価値に優劣はなく、ともに共存すべしという考え方が、次第に人々に受け入れられてきたのだ。」
「フランスには独特のチーズがあり、わが国にはみそ汁がある。」

 この部分はフランスとドイツが戦争を起こしたのは、相互の文化理解がなかったからだというのか!じゃあ、内戦はどうなる。異文化の理解が足りないから戦争が起きるというのなら、内戦は起こらないはずじゃないか。

 ドイツ人がフランスを攻めたのは、フランスのチーズを知らなかったからとでも言うのか。日本が中国を侵略したのは、日本人が中国文化を知らなかったからだとでも言うのか。こんな馬鹿げた短絡的な議論は聞いたことがない。

 ナチスドイツは、オランダも占領下に置いた。オランダ語はドイツ語の方言と言ってよい。ドイツ語の方言地図を見ると大抵オランダまで含まれている。オランダ語とドイツ北部の方言は極めて似ている。国境線の所で、言語が急に変わるわけではないのだ。

 言語というのは勿論文化の重要な一部である。言語が似ていれば習慣や考え方も似ているだろう。それでもドイツはオランダを占領したのである。文化と戦争はまったく関係がない。

・アメリカ大統領
 和田さんは、テレビでクリントン・アメリカ大統領のことを若くていいと言っていた。確かにクリントンが当選した理由のひとつは、若いということだろう。だが、若さだけでクリントンを評価するなら、それはクリントンとクリントンに投票した人に失礼であり、馬鹿にしている。

 若いというだけで、いったい何だというのだ。政治家は若ければそれだけでいいのか。政策は関係ないのか。政治家はどんな政策を実行するかによって評価されるべきであって、年齢はどうでもいい。老人よりは若いほうがいいが、若さだけでクリントンを評価するのは、不勉強だからじゃないか。

 ブッシュは前回の大統領戦で増税はしないと言って当選したのに、財政赤字削減のため増税した。それも中産階級には増税して、金持ちには減税したのだ。こんな人が当選したら大変である。

 ではクリントンの方はどうかというと、選挙の終盤ではまとまった政策を提示していたが、夏頃までは「減税します、財政赤字はなくします、環境問題に取り組みます、企業に対する規制をなくします、中絶は容認します、胎児の人権を尊重します。」などと相矛盾することを平然と言ってのけていたということだ。さすがにこれはいけないと、側近がこんなことは言わないようにさせたようだ。

 どんな選挙でもそうだが、自分の考えを正直に言う候補者などいないだろう。どういうふうに訴えたら、有権者に受けるか考えて演説するのである。誠実に自分の考えていることを率直に話す候補者など世界中にひとりもいないだろう。

 和田さんだって自分の思った通りテレビで話すだろうか。「こう言ったほうが視聴者に評判がいいだろう」とか、「こんなこと言ったらきっと苦情が来るだろう」とか色々考えながら話しているだろう。クリントンだってそうである。ある時まではそれだけ考えていたのである。

 「アメリカには若い大統領が誕生したのに、日本の総理は年寄りですね。」などというコメントを宮沢総理が聞いたら、「この新聞記者はなんて不勉強なんだろう。」と思うだろう。宮沢さんもTimeを読んでいるというから、上に書いたことは知っていると思う。「こんな不勉強な新聞記者が何と言おうと知らないねぇ。」と総理は思っているに違いない。

 こういう思いは総理以外にも大抵の政治家にあるだろう。自民党の議員がスキャンダルを起こしたのに、野党まで含めた政治家全体が何かしでかしたように言われれば野党の議員はみな憤りを感じるだろう。

 四月八日の天声人語も自民党の政治家と野党の政治家を混同している。こうやって実際以上に日本の政治が悪いように日本人に思わせている。そして、投票率が落ちたと言って嘆いている。馬鹿みたいだ。

 自分たちで政治を悪く言いすぎておいて、投票率を下げておいて嘆くなんて。そんな程度だから新聞は段々読まれなくなっていくんだ。私だって新聞を読んでいて、いやになることや憤慨することは毎日何度もある。よくもまあこんなに短絡的で生きていられるなと思うこともある。

・経済大国
 ひとりの記者が頭が悪くても構わないのだが、みんなでおかしなことを言っているから絶望的なのである。

 例えば、日本は経済大国なのに家が狭いという人が多いが本当にそうだろうか。

 まず、家が狭いのは都市部でのことであって、田舎では家は広い。日本中の家が狭いかのようにいわれたら、田舎に住んでいる人たちは自分たちは日本に住んでいることにならないと思って、田舎に住んでいるのがいやになり、都会に出てきて、都市部の地価は更に上がる。

 結局、おかしな報道をすればするほど、都市部は混雑し住みにくくなる。

 小此木 潔氏はニューヨークから帰ってきてすぐ(92年10月頃)、ウイークエンド経済に「日本は経済大国なのに何故家は狭く、電車は混むのか。」と書いていたが、この人はアメリカで一体何を見てきたのだろうか。アメリカは世界一の経済大国であるが、暴動が起きるくらいに貧富の差が大きい。

 ロスアンゼルスの暴動は人種対立ではなくて、貧富の差が原因である。黒人の商店も襲撃されたからだ。絶頂期の大英帝国にも貧乏人がかなりいたようである。経済大国だからといって何もかもうまくいくと考えるのは、残念ながら歴史を知らない人である。思考力のない人である。

 ではそのようなレベルの低いことを言っている人たちは悪意があるのかというと、そうではなく、良心的な人だから私は余計絶望するのである。

・要望
 これからは是非十分考えてから、記事を書いたり発言したりしてほしい。新聞やテレビが日本人の認識や考え方を決定するのである。だから日本をよくするためにはマスコミがまずよくならなくてはいけない。だが朝日新聞の記者にはそういう認識がないようだ。

 というのは、93年2月19日の夕刊p.3に朝日ジャーナル最後の編集長下村満子氏のインタビュー記事が載っているが、その見出しがおかしいからだ。オランダ人のフェネマさんは、「日本の変革は、まず報道から。報道の役割はとても重要です。」(最後の段落)と日本のマスコミ批判をしているのに、見出しは「改憲は左右から提案を」と憲法論議にすり替えている。これでは朝日新聞は決して変わらないと宣言しているようなものだ。フェネマさんはとってもがっかりしたと思う。私は憤慨した。

 土曜日の朝刊に赤えんぴつという連載があるが、この第一回に見出しの付け方を何人もの人がチェックすると書いてあったが、それが本当だとすれば朝日新聞の抱える問題は根が深いということになる。

 日曜日の投書欄に「読者と新聞」というコーナーがあるが、これは確か珊瑚事件をきっかけに作られた。この欄は初めのうちは緊張感が漂っていたが、今ではだれている。ただ「こういうことがありました。」と報告しているだけである。そしてまた記事の捏造が発覚した。日本の古代遺蹟に関する記事である。結局少しでも目立つ記事を書こう、少しでも成績を上げようという競争心に取りつかれたままなのではないか。

 朝日ジャーナルに関して。朝日ジャーナルが廃刊になったとき、「若者の活字離れが原因」とか、「日本にはこういう硬派の雑誌は育たないのか」とかいい加減なことを言う人ばかりだった。

 なぜか内容に言及する人は一人もいなかった。内容が悪かったのである。下村氏はレイアウトとデザインで売ろうとしていた。売れるわけはない。

 「日本/権力構造の謎」を書いたカレル・ヴァン・ウォルフェレン氏のインタビューが載っているというので久しぶりに朝日ジャーナルを見たことがあった。

 記者はひどいことに、ウォルフェレンの本を読んでいないようで、一般的な質問の後、時間が余ったらしく、「日本の官僚は“Structural Impediments Consultation”を構造問題協議などと訳しているから駄目なんでしょう」などと言い始め、ウォルフェレンが「そんなことは関係ない」と言っても、「impedimentは障害という意味なのに問題などと訳しているから、日本の官僚は駄目なんですね」としつこく言っていた。本当にしつこかった。この部分を下村氏は読んだのだろうか。

 ウォルフェレンという人は、世界の日本観を永遠に変えた偉大な人である。そんな人にこんなくだらないインタビューをするとは許せない。私が編集長だったら、こんなのは編集部から追い出す。新聞記者には向かないといって、退職を勧める。

 なぜこんなひどい記事が多いのか。思考力がないからである。自分の頭で考えることが出来ない。基本的な事実を押さえて、論理的に考えることが出来ない。よく知られた事柄を結び合わせて、まともな議論だと思っている。

 例えば、日本人が英語が出来ないのは、島国だからだとか。他の島国の人も英語が出来ないのだろうか。日本人の英語と島国は何も関係がない。ではなぜそんな短絡的なことを言うのか。思考力がないからだ。

 こう書くと、朝日の人は「教育が悪いからでしょう」と言いそうであるが、あまり関係ないと思う。私も、思考力を養うような教育は受けたことがないからだ。今のままの教育でも自己批判をしながら考えていけば、ちゃんとした議論は出来る。教育のせいにしてはいけない。

 ともかく、思考力を養って新聞記者としての使命を果たしてほしい。流れに身を任せて、思いつきで短絡的なことは言ってほしくない。
                                  跡見昌治

(この回からソネットに載せるに当たり、本文内に見出しをつけることにしました。2010年6月23日。)

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タグ:朝日新聞
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