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朝日新聞に出した手紙(5) [朝日新聞に出した手紙]

【1994年01月13日】-山本夏彦氏は以前「vs朝日新聞」という連載の中で、「新聞は10年に1度見ればいい。甲子園の選手宣誓を移した写真は、毎年同じアングルだからだ」と言っていた。10年に1度というのは大袈裟だけれど、年中行事になっている報道がある。

・靖国神社
 毎年8月15日、国会議員の靖国神社参拝がニュースになる。自民党の議員は靖国神社に参拝し、また侵略戦争を起こそうとしているかのように報じられるが、本当にそうだろうか。

 神社に参拝しただけで戦争が起こせるなら、誰も苦労しない。議員が参拝するのは、日本遺族会という自民党の支持団体が、是非参拝してほしいと言うからである。新聞社が読者の要望を無視できないように、国会議員は支持者の依頼を無下に断ることができない。マスコミの批判を浴びてでも参拝するのである。

 こういう事情をマスコミが知らないのかというと、知っている。小さな記事だったが、私は朝日新聞で何度も、日本遺族会が自民党に参拝を要望したという記事を読んだ。それなのに、朝日新聞を初めとしたマスコミは、靖国参拝を復古主義だと非難する。一般の日本人は「自民党はまた戦争を起こそうとしている」と思い、かつて日本に侵略されたアジアの国々は、「日本は侵略を反省していない」と反発する。

 私が高校で政経を習った先生は、教科書の執筆にも参加していたが、靖国神社の参拝を復古主義だと批判していた。高校の教師までマスコミに騙されてしまっている。

 朝日新聞は日本を良くしたいのか、政治家をいじめたいだけなのか。こういう報道は、日本人の政治不信を悪化させるだけでなく、外交関係まで悪くしてしまう。日本人のことはともかく、外国人の日本観を悪くしたことは断じて許せない。

 政治家は、こういうことを記者に言っているだろう。だが記者は耳を貸そうとしない。読者の苦情には敏感でも、取材対象者からの異議は無視する。

 取材先に信用されないようではダメだ。政治家に「朝日新聞はよくやっている。間違いはないし、時にはこちらが気づかないことまで指摘してくれる」と思われなくてはいけない。そこまで信用されても、政治家がマスコミの主張をどれほど聞き入れるか分からない。今のようでは政治家が行動を正さなくて当然だ。

・政治報道
 以前、自民党は金丸、竹下、小沢の「金竹小」トリオで運営されていると言われていた。だが、こんなことは考えられない。年齢も当選回数も違う小沢氏が、金丸氏や竹下派のオーナー竹下氏と対等なんてことがあるだろうか。小沢氏自身、そんなことはあり得ないと否定していた。政治家なんて嘘ばかりついているが、そう話していた小沢氏の困惑した表情からすると、これは嘘ではないだろう。

 きっと誰か議員の秘書かなんかが、面白がってそんなことを言ったのだろう。それをマスコミが引用し合って広まったのだろう。こういうマスコミの作り出す擬似現実が日本には本当に多い。

 だから、小沢一郎氏が誤報を理由に、産経新聞と日本経済新聞を、会見から締めだしたことはいいことだと思う。そうでもしない限り、マスコミこそ反省しない。だが、その後小沢氏は一度も会見をしていないらしい。これは言語道断だ。

・野村事件
 93年10月、朝日新聞で野村秋介氏が自殺した。新聞本紙と週刊朝日に出版局長がその時の様子を書いていたが、その後、野村氏の主張を朝日新聞はどう受けとめ、どう報道を変えていくのか、全く出ていないようである。

 変な人に言いがかりをつけられ、ひどい目に遭ったが、早く忘れようというのだろうか。これからも今まで通りの報道を続けていくつもりなのだろうか。例えば、野村氏も靖国神社参拝の報道に抗議していたようである。「口舌の徒は、相手にされないが、命を賭ける者は聞いてもらえる。」と言っていた氏の死が無駄にならないようにしてもらいたい。

・教科書検定
 93年10月20日、教科書検定に関する判決があったが、私はいつも教科書検定を巡る議論には大きな疑問を感じてきた。

 というのは、文部省が社会科の教科書検定をするのは、愛国心を養うためのようだが、実際には逆効果になっているからだ。

 先ず、愛国心について一言。日本では愛国心がなぜか軍国主義と同一視されているが、本来は別物である。教科書検定や政治の腐敗を嘆いている人も、日本を大切に思っているのであり、その気持ちを一言で表現すれば愛国心となるだろう。

 そもそも、教科書の記述を「美化」することによって、愛国心を養えると考えることがおかしい。20日のニュースステーションのインタヴューに学生が答えていたように、教科書を暗記する者はいないし、じっくり読む者も少ない。そもそも、文部省は教科書をなぞるように教えてはいけないと言っているはずである。たとえ、検定された教科書を暗記したとしても、少し表現が和らげてあるからといって、生徒の愛国心が高まるとは思えない。それなのに、文部省は検定を続ける。

 文部省は検定をすると、検定内容が詳しく報道されるということを計算に入れていない。教科書検定の報道に接した者は誰もが、「文部省はなんて姑息なことをするんだろう」と思って日本が嫌いになる。日本が好きな人を増やそうとして、日本が嫌いな人を増やしているのだから、救いようがない。

 また、報道される度に日本が東南アジアでどんなことをしたかテレビで大きく取り上げられるのだから、検定なんかやめた方が愛国心を培うことになる。

 日の丸や君が代に関しても同様である。そういうものを押しつけると、愛国心が養うどころか、愛国心をそぐことになる。

 目的を達するために、何をしたらいいのか分かっていないような連中が文部省の役人なんだから、暗澹たる気持ちだ。

・言葉遣い
 93年10月、東京版に「いま東京語は」という連載があった。気づいたことを記してみる。

 第一に、自分達の言葉遣いに全く問題がないかのように、若者の言葉遣いを批判している。こういうのは若者の反発を招くだけで、改善に結びつかない。

 最近政治家がよく「初めに~ありきはおかしいのではないか」というような言い方をする。93年9月14日の朝刊1面の「政治改革に問う」という連載の見出しには「まず再編ありき、なのですか」とあり、本文には「『はじめに、再編ありき』の印象さえ受ける」とある。

 この言い方はおかしい。聖書のヨハネによる福音書の冒頭、「初めに言葉あり」をもじったのだろうが、「き」というのは過去を表す助動詞である。「まず再編があったのですか」という意味になってしまう。ここでは「~を前提とする」というつもりなのだろう。国会議員も無教養だが、文語文法も分からない新聞記者というのも情けない。政治家がこういう言い方をした場合には、「~を前提とする」のように言い替えて報道しないと、日本人は日本語までできなくなってしまう。

 ともかく、これでは高校の国語の先生には馬鹿にされるし、古文の得意な高校生にも呆れられるし、部数が減って当然である。

 第二に、若者を一人前に見ている。若者の言葉遣いが変なのは、まだ日本語が下手なのである。私自身、今でも大してうまくないが、若い頃はもっと日本語が下手だった。新聞記者の方なら、分かりやすくて、しっかりした言葉遣いの日本語を書くのが難しいことは、知っているはずだ。日本の国語教育が如何に駄目かもご存じだろう。

 それなのに、若者を一人前に見て、「ここがおかしい。あそこがおかしい。」と言っている。日本人は皆、誰もが日本語はちゃんとできると思っている。だから若者は余計、言葉遣いに注意を払わない。「日本人だからといって、日本語がちゃんとできるとは限らないし、特に若者は下手でも仕方がないが、少しずつよくしていかなくてはいけない」という姿勢で記事を書いて戴きたい。

 こういう思い込みは、マスコミだけの責任ではない。国語の教師は「日本人なんだから、これくらい分かるだろう」と、国語の教師としては口が裂けても言ってはいけないことを、よく言っているようである。日本人も勉強しないと、ちゃんと日本語ができるようにならないから、学校には国語の授業があるのに。

 第三に、一人の見方を真実のように書いている。中央大学の講師が、「今の学生は当てられても返事をしない。数年前まではそんなことはなかったのに」と言っていたが、10年前大学生だった私は、答えられないと黙りこくっている学生をたくさん見た。こういうことは、別にここ数年の傾向ではないだろう。この人の思い違いである。

 第四に、若者の言葉遣いばかりが槍玉にあがっていたが、中高年の言葉遣いがしっかりしていて、若者の言葉遣いだけが駄目ということはあり得ない。若者ほどでなくても、中高年の言葉も乱れている。

 「どうも」が「こんにちは」という意味でも使われるし、「こんばんは」にも「さようなら」にもなる。こういう中高年の傾向が、若者の間では強く出ているだけである。そうは言っても、若者の言葉遣いは変で聞いていられないけれども。

 若者の言葉遣いがいい加減なのは、世の中があまりにいい加減だからではないだろうか。親は子供のことが分かっていないし、教師は言動不一致だし、政治家は自分の当選のことばかり考えているし、マスコミの報道レベルは低いし、世の中、いい加減で適当でめちゃくちゃなことばかりである。だから、言葉遣いなんかいい加減でいいと思う若者が多くても、全く不思議はない。

 また、複雑なことや難解なことをいい加減と捉らえる人もいる。こういう人にとっては、単純明快なこと以外、何でもいい加減となってしまう。いい加減な言葉が氾濫するわけである。

 10月27日・28日付の記事は、それこそ曖昧で分かりにくかった。

 27日には、事実文と意見文を区別しなくてはいけないと書いてあったが、そんなに簡単に区別できるだろうか。ある行動を、ある人は「走っている」と言い、別の人は「速く歩いている」と言うこともあるだろう。一体どちらが事実で、どちらが意見なのか。誰かが食事をしている様子を、ある人は「がつがつ食べている」と言い、他の人は「急いで食べている」と言うかも知れない。

 言葉は常に判断と結びついているのではないだろうか。事実と意見を簡単に峻別できるとは思わない。

 28日では、「欧米では白黒はっきりさせるので、曖昧な言い方は相手にされない」といったことが書いてあったが、英語にもYes and no.という言い方がある。ロイヤル英和辞典(旺文社)には、「どちらとも言えない」と書いてある。(yesの熟語欄)部分的には同意するが、部分的には反対するということだ。

 アメリカの政治家も、回りくどい言い方をすることがある。また、フランス語のonという代名詞は、「私(たち)は」という意味でも「あなた(たち)は」という意味でも「彼(ら)は」という意味でも「彼女(たち)は」という意味でも、使われる。結局どの主格の人称代名詞の代わりにもなる。極めて曖昧である。日本語の「手前」も自分と相手を指すけれども、三人称は指さない。

 最近、おかしなところに「関係」や「状態」という若者が多い。例えば「弁護士をしている」と言うべきところを、「弁護士関係の仕事をしている」と言ったり、「すごく疲れた」という意味で「すごい疲れちゃった状態」などと言っている。「すごく」と言わなくてはいけないところで、「すごい」と言う者も多い。こういうことも是非指摘してほしかった。

・経済報道
 93年11月12日朝刊で小野田セメントと秩父セメントの合併が報じられた。

 朝日新聞は、経済面に「セメント需要低迷に危機感 生き残りかけ決断 小野田-秩父の合併」という記事を掲載している。この「生き残り」という言葉が気になる。朝日は企業が合併する時はいつも「生き残りをかけて」と書いていないだろうか。

 同日の毎日新聞と読売新聞を見てみると、見出しには生き残りという言葉はないし、本文にもない。その代わり毎日と読売では、「過当競争」という言葉が、見出しにも本文にも出ている。朝日でも本文には過当競争という言葉が使われているのに、見出しには出ていない。

 「生き残りをかけて」ということは、合併しないと倒産するということだ。セメント会社は22社あるということなので、国内販売量が業界第2位の小野田セメントと業界6位の秩父セメントが合併しないと倒産するとしたら、例えば業界10位以下の企業は近いうちに倒産するということだろうか。

 また、朝日だけでなく読売も毎日も、業界再編を強調しすぎる。この合併発表以来93年中はセメント会社の合併はないので、ここまで業界再編を強調するのは言い過ぎではないだろうか。

 また、朝日に「シェアなど慎重に審査 小野田セメントと秩父セメント合併で公取委」という記事があるが、なぜ公正取引委員会が審査をするのか、この記事だけでは分からない。

 読売の「小野田セメントと秩父セメントの合併計画 公取委、重点審査へ」という記事には、「両社の合併が市場競争を阻害するかどうかを審査する方針を明らかにした」とあり、なぜ公正取引委員会が審査するのかはっきり分かる。

 毎日では、「公取委が重点審査へ--小野田・秩父セメント合併」という記事に『合併が市場の競争を制限することになるかどうか、地区の販売シェアなどを含め審査』とあり、同じく分かりやすい。

 また、読売の「『ことば』合併比率」という記事を読んで初めて、株の割り当てがどういうことか分かった。

・まとめ
 日本の報道は本当にワンパターンだ。実際にはそうでないのに、そういう風に今まで言われてきたものだから、同じことを繰り返していることが多い。伝統をただなぞっているだけということもある。

 特に、日本文化に関する議論はひどいものが多い。日本語は曖昧だという先入観でデータを集めてくる。言葉なんか何語でも相当いい加減だし、言葉が乱れているのは今の日本に限ったことではない。過去の日本においてもそうだったし、現在の世界においても、言葉は乱れている。言葉遣いに気を使っている人は、いつの時代でも、余りいないのかも知れない。

 今の若者が何でも「一個」と言ってしまうのは、いろいろな物や情報が溢れていて、関心をひく物が多く、言葉遣いにまで気が回らないためかも知れない。昔の人なら意識しなくてもちゃんと言えたことが、他のことで忙しくて、頭がそこまで回らないのかも知れない。

 それなのに、こういう事情を考えることなく一方的にいつも同じ議論を若者に押しつける。靖国神社の参拝に関しても、事情を考えようともしない。政治家を批判していればいいと思っている。

 日本では誤報が伝統になっている。恐ろしいことだ。

 だから、テレビ朝日元報道局長椿氏の発言をきっかけにして、報道の中立性について随分議論があったけれど、みんなふざけているんじゃないかと思う。不公正でいい加減な報道は日本中に溢れているのに、報道が公正かどうかと議論しているんだから、つける薬がない。

1994年1月13日
                                             跡見 昌治  

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