SSブログ

日本語のできない英語学者たち(上) [英語学]

【2012年07月05日に掲載、08に訂正】-数年前、インターネットで検索していたら、日本人が国語について英語で論じている論文を何度も目にした。「国語学者がどうして英語で論文を書くのか」と思っていたが、最近謎が解けた。英語学者が国語について英語で論じることがあるのだ。

 生成文法では人類の全言語に共通する「普遍文法」を探し出そうとしているので、アメリカ人なども日本語を題材に取り上げる。

 英語を研究していても、日本人には英語の微妙なニュアンスは中々分からない。そこで日本語も分析することが多い。英文科で英語学を教えているのに、研究では日本語に重点を置く人もいる。英語で書けば外国人も読むので、英語で書くことが増えるのだろう。

・不自然
 日本の英語学者が国文法について論じてもいいが、所々奇妙なのだ。まず英語の構造をそのまま日本語に当てはめようとする。

 例えば金城学院大学の高野祐二教授は、Double complement unaccusatives in Japanese: puzzles and implications(2011)で次のような趣旨のことを書いている。

 「手紙がケンに届いた」では目的語に「に」がついている。一方「ケンにラテンが分かる」では主語に「に」がついていて、「与格主語」と言える。

 日本語ではどちらも「名詞」+「に」なのに、一方は「目的語」+「助詞」で、もう一方は与格主語だというのだ。

・印欧語における格
 格の捉え方もおかしい。インド・ヨーロッパ語族で格というのは名詞の語尾が変化することで、日本語のように名詞に助詞がつくことではない。例えばラテン語では名詞は次のように格変化をする。

主格 amicus(アミークス)(「友達は」)
属格 amici (アミーキー)(「友達の」)
与格 amico (アミーコー)(「友達に」)
対格 amicum(アミークム)(「友達を」)
奪格 amico (アミーコー)(「友達から」)

 amicという語があって、それに-usや-iがつくのではない。ラテン語にamicという語はない。格の定義を変えてもいいが、日本語を分析する時に格を持ち出すのはやめた方がいい。

・例文
 それに例文が不自然だ。「ケンにラテン語が分かる」と言えないことはないが、珍しい言い方だ。普通は「ケンはラテン語が分かる」と言うはずだ。

 「太郎には分からないがケンには分かる」という文脈では、「ケンにはラテン語が分かる」と、「には」と言うことがある。だが普通は「ケンに」とは言わない。

 「ケンに」が自然な時もある。そのあとに「みんな知っている」などが続く時だ。「ケンにラテン語が分かることはみんな知っている」なら自然だ。

 もし「ケンに」でなく「ケンはラテンが分かることはみんな知っている」と言うと、一つの文に「は」が2度出て来てしつこい感じがするし、意味が取りにくくなる。このような時には「ケンに」と言うと思う。

 それなのに高野教授は「ケンにラテン語が分かる」が自然な言い方として論を進めている。この人だけがこんなことを言うのならまだいいが、他の学者も同じようなことを書くようなのだ。
 

ブログランキング・にほんブログ村へ

nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。